(二)
荒れ果てた墟里はかつて守りの要であった。
小さな城塞ではありつつも、見上げるのも苦労するほど立派な門を構え、そこに、呆れるほど長い旗をつるして夥しく立て飾っているのだから、どれほどのことを成し遂げれば、天をかげらせるほどの旗を飾れるのだろうかと、無乃は呆れた。
まさか、自分で用意したわけではあるまい。
墟里の城楼にはためく旗は長い間陽の光を遮り、大地は暗く影を落としていた。雲間をうねる様子はまるで龍の白い腹が泳いでいるように壮大であった。
無乃は慈愛に満ちた眼差しで空を見上げ、頭上に翻る旗の文字を読み上げた。
「……誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり
善小なるをもってなさざる事なかれ
善を善とし、悪を悪とす
善を責むるは朋友の道なり……」
討伐軍の頭領、喬大雀を称える名声らしい。
「さて、一体、何の騒ぎだろうね」
たったの布きれが天を高く支配しておきながら、この大地を制するのはよほど困難なことだったのだ。仰々しい将軍の名を、無乃は未だかつて聞いたことさえなかったのだから無知を恥じるばかりだ。
と微笑んでいた。
びしょ濡れの男を背負う羅冴流も、天を覆う壮観な眺めに冷たく息を吐いた。
「善行を積んだ立派な頭領がいながら、町はやけに閑散としている」
羅冴流の言うように民家は傾き、店内は数年の埃が降り積もってまるで廃墟同然であった。
恐ろしく高いところに誉れ名を吊しておきながら、城内眼下に広がる田畑にその余光は全く届いていない。
身なりの乱れた兵士くずれや無頼漢を跋扈させ、土地や人民を苦しめるとはろくな頭領ではない。
天意に従って善を行ったというのなら、喬大雀を慕った人々が大勢集まりそうなもの。しかしそれにしては寒気のするようなひと気のなさだった。
それでも無乃が城門をくぐったのは、城楼の旗がどれも真新しく輝いていたためである。どうやら頭領はまだここにとどまっているらしい。
「平凡な身でこれほど仰々しい威光を浴びせられては、たまらないよ。もしあれに耐えられるというのなら、その人こそ地を制する芳名を授けられるべきだ」
無乃はわざとらしく息を吐き感心を露わにさせる。心にもないことを言っていると羅冴流はすぐに見破って、匂やかな笑みを零した。
「なら、しばらくここに滞在して耐えられるかどうか試すのもいい。無事耐え抜いたら俺たちの芳名をこの大地に刻むのはどうだ?」
「面白そうだ。そしたら私は無道無乃と刻むよ。どうかな」
羅冴流が微笑みを深くした。
「なにやら、複雑な意味がありそうだ」
「意味なんて、ないよ」
無乃はふふと微笑み、戯れに乗っかる羅冴流にうっとりと瞼を伏せた。
雷のように空をはためく立派な旗を、まるで喬大雀の恥をさらすようではないか無乃が笑ったときだ。
「ねえ、あんたたち、今日はどこに泊まる予定だい?」
なごやかな雰囲気の二人の間に、突然女性の声が割り込んだ。
腕に取りすがった丸顔の女性が不安そうな顔をして無乃の腕を引き留めた。引っ掻くような手に無乃は思わず驚いて振り返る。
「もし決まってないなら、うちにくるんだ。ここはほら、あまり外から人がこないから。宿なんてどこもやっちゃいないよ。ほら早く……おや? そっちのお兄さんは連れかい?」
女性に強く腕を引かれてふらっと蹌踉めいた無乃を、咄嗟に羅冴流が支えた。
「……宿があるのか?」
無乃は女性の必死な形相に何か怪しいものを考えないでもなかった。着いていってもおそらくろくな目には合わないだろう。
そう逡巡しながらも、しかしちらりと羅冴流を見やる。
砂ぼこりが舞ってじっとりと暑いはずだが、羅冴流は刺青を隠すために襟元をきっちりとしめて、背中の男の全体重と体温がのしかかっているのだから疲れていないはずがない。
けれど文句も零さず不平も言わず、よく無乃の鈍い足取りを我慢して歩き続けるものだ。
できればもっと清潔なところで羅冴流と怪我人を休ませたかったが、そうもいってはいられないか。
額に浮かぶ爽やかな汗を、無乃はやわらかな笑みのままそっと指先で拭ってやった。
もし彼女が部屋を用意してくれるというのなら、今日くらいは羅冴流の自由に寝させてやろうと無乃は目を瞑る。
「丁度良い。怪我人がいてね。部屋を借りられるかな」
すると女性が怪我人と聞いてさっと顔を青ざめさせ、羅冴流の背中でだらりと手足を垂らす男に声を震わせた。
「え、ええ。こっちへ。さ、早く来て」
身を竦めるように両手を握り、細い路地へと小走りに入っていく。彼女はしきりに辺りの視線を気にしていた。
まるで罠に誘い込むような慎重さだと、羅冴流はその背中を見ていた。




