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無道無乃  作者: 海原津子
芳名を吊す
37/44

(一)

「君が悪いよ、羅冴流《ルオフーリウ》」

 緑陰にしたたる光粒を浴びる無乃《ウーナイ》が、まるで丁寧に教え導くように優しく羅冴流に言って聞かせた。柔和な笑みを浮かべながらも、容赦のないぴしゃりとした声だった。


 羅冴流は耳を赤くさせて失態を恥じているのだが、返す言葉も無く項垂れている。

しかし注意深く見てみると、どこかふて腐れてもいるようなのだ。口元を手で覆って、「突っつかずに無視できるなら、していたよ……」と胸の悪態が小さくもれていた。


 鼻歌交じりに舟を操っていた羅冴流が、ふと右から左手へ棹を上機嫌に持ち替えた。あまりにも勢いがつきすぎたせいで、頭上にせり出した枝の間を鋭く突き上げたのだ。舟がすっと通り抜けた直後、枝に引っかかっていた何かが飛沫を上げて背後に落ちたのだった。


 激しい波に少しの間小舟が揺れ、無乃は思わず振り落とされかけて船縁にしがみ付く。すぐさま船尾まで跳んでやってくる羅冴流が、危うげな無乃の腰をしっかり支えたまま、自分は川の上へ身を乗り出し、ぷかぷかと浮いているそれを見て呆気にとられた。


「人か? まさか、あんなところに引っかかっているとは思わないだろ」

 棹に突っつかれた所為で意識を失ったのか、それとも元から気絶したままだったのか。羅冴流に突き落とされたその人物は生白い首の、体つきはまだ年の若そうな男だった。うつ伏せに浮いたまま反応がない。羅冴流とお互い腕を回して支え合ったまま、しばらく男が息を吹き返すのを待っていると、小さな気泡がふつふつと浮かび、がはっと男が飛び起きた。


 けれど男が目を覚ましたとき、勝手が違ったのだ。手足が地面に着かない驚愕さに大いに気が動転し、バタバタと手足を振り回して混乱気味に叫んで藻掻いては、呆気なく溺れていった。またすぐにだらりと身体の力が抜けきって水面に浮き上がり、波が一つもたたなくなる。

 辺りは静寂さを取り戻した。


 お、大人しくなった――

 と無乃はのんびりとこの男を眺めてから、つくづく、予定どおりとはいかないものだと息をついた。

「引き上げよう。羅冴流、手を貸してくれるかい」


 男に騒がれて事態が悪化するよりは、気絶したままの方がやりやすいと、無乃が袖をまくる。

 羅冴流が頷いて、棹に水飴を巻き付けるようにくるくるっと男の身体を引き寄せたので、無乃は男を引き上げようとした。


 けれど逆に引きずりこまれそうなほど重い身体である。二人がかりでやっと舟の中に引き上げる。

 足元に寝かせてから、やはり気が進まないながらも、にこにこと男の口を開いた。

 奥歯が欠けている。


 力一杯顔を殴られたようだ。手首に縄の編み目が食い込んでいるから、無抵抗に近い状況だったらしい。衣服の下は顔よりもひどく、殴打のうっ血痕が痛々しく残っていた。指も何本か折れている。それに、一番恐ろしいのは打撲の痕に交じって鋭い引っ掻き傷と、獣に噛まれた痕があること。


 この辺りに虎が出るのだろうか?

 もしそうなら、この男を殴った相手よりも、言葉の通じない獣と出会ってしまう方が物騒だ。それに彼の傷は襲われてから時間もそれほど経っていない。まだ近くに居るかもしれない。


 なにせ川に浮かぶ男の身体に、まだ固まっていない血がまつわっていたのだから。

 無乃は腹部の傷をなぞり、ふぅと息を吐いてから羅冴流にあっけらかんと告げたのだった。

「羅冴流、君が悪いよ」と。


 なにせ突き落としたのは羅冴流だ。それに加えて面倒事な気配を無乃は感じていた。

 素性の分からない、しかもどうやら訳ありの男を連れて歩くわけにもいかない。

 近くの村へとりあえず男が目を覚ますまで預かってもらうしかないかな、またしても目的地への邪魔が入ってしまったな、と無乃はもう一度息を吐いていた。


「置いていこう」

 無乃の憂い顔を見て羅冴流が平然と言う。

 それをちょっと驚いた顔をして無乃は頭を振った。


「見てしまった以上、見捨てることはできないよ。彼を村まで運ぼう」

 無乃はゆったりとしながらも手際よく動いていた。薄汚れた布を患部に宛がっている。羅冴流は最初は気にも留めていなかったが、その見覚えのない布に首をかしげた。無乃の衣服は解れてはいるものの破けてはいない。懐から取り出したようでもない。よく見てみると、破けているのは男の裾だった。


 ――虎に食われたか?

 難しい顔で思案する羅冴流の目の前で、まさか無乃が勝手に彼の裾を引きちぎって忙しそうに水に浸しだしたのだから、羅冴流は思わず咽せかけた。くっ、と喉を鳴らして軽快に笑う。

「彼、起きたら自分の衣が裂けてるんだから、驚くかもな」


 言われて、無乃は慌てて手を止めた。

「私も、自分の衣服の方が大切だからね……」

 さすがに、非情な人間だと思われただろうかと困惑していると、羅冴流は面白そうに笑った。


「彼は見たところ傷が多い。君の衣服一枚では足りない」

「私にも優先順位というものがあってね……幻滅したかな」

 ごそごそと喋る無乃に羅冴流がまたしてもふっと笑みを零す。


「知らない男の前に突き出されても、騾馬の干し草の方を心配していたな」

「騾馬の若殿は、気難しい性格だからね、旅を続ける上で何よりご機嫌を伺わなければいけないよ」

「それに、君は食い意地だけは張っている」

「いつでも食べられるわけでもないからね、食べられる時に食べないと、後悔するだろう?」


 無乃は穏やかに答えていた。それを羅冴流が心地よさそうに頬杖をついて聞いている。

 舟が水草を押し分けて一条の通り道をつくっていく。

 羅冴流はゆっくりと漕いで、岸の傍に舟を着けた。


 吹きこぼれる花の樹に縄を結び、二人は降り立つ。のんびりと民家を探して歩きだした。

 のんびりとはいうが、傷だらけの男を少しでも早く落ち着ける場所に寝かせてやりたいのだから、無乃はいつもより早歩きのつもりだった。牛の歩みより遅いと羅冴流に言われてしまえばどれほど急いでいても大して変わらない。


 すぐにふっふっ……と息を切らして顔を真っ赤にさせ、顎の下に伝う汗をしきりに拭う無乃はにっこりとした羅冴流の笑みと目があう。

「これでも、急いでいるんだ……」

 無乃はなんとなく責められた様な気持ちになってまだ何もいわれていないうちから弁解していた。


 羅冴流の視線は汗を追っている。無乃の成年男子らしく突き出た喉の骨から、鎖骨の間へ。さらにその下へと焦らすように垂れていく汗に、油断のならない顔を赤くさせた羅冴流は思わず目を逸らした。

「汗が……」

「運動は苦手でね」

「あとで拭ってあげるよ」


 ふと、無乃は顔を上げて木陰の下の羅冴流をじっと見つめた。

 無乃にあわせてのんびりと歩を進ませる羅冴流は、道脇の草をむしっては捨てている。景色は変わらず、無乃はちんたらと歩いている。退屈だからそんな戯れをいったのだ。


 何を企んでいるのかちっとも分からない男。無乃はさて? と小首をかしげて、うーん……と目一杯、しばらく悩み通していた。

「……君を、信用していいものだろうか」


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