(十・終)
張浮は林灰坡の支配者を新しく起てたという。
どうやらその人選が争いの火種となり一帯はひと月ほど荒れた。首領の器ではない張浮の空席を狙っていた悪漢がその地位を奪取したためだ。
張常と張家に与していた親族や、盃を受けた兄弟分たちは抵抗を続けたが、しかしその最中に張浮は忽然と姿を消したという。かつてかけられた呪いのせいだと囁かれたが、それは無乃のあずかり知らぬところである。
「ところで、羅冴流、奇秀に会いたくないか?」
船を羅冴流に任せながら、無乃は組んだ足に寄りかかり、船縁から手を出して昼の月のように白っぽい川の水をさらっている。
「奇秀? 君が殺したはずだ」
忌避なく言い捨てる羅冴流に無乃は微笑んだ。
「それが、生きているらしい。どんなやつがなりすましているのか、君も気になると思ってね。医者を求めているというから、からかいに行こうか」
膝に乗り出し、まるで密談をすすめるように無乃は口元に手を寄せる。曰くありげに微笑んだ。すると肩越しに羅冴流が振り向いて得意そうにいう。
「奇秀について詳しい人間は俺を除いてもう一人いるが、問い詰めてしどろもどろになるのが目に見える」
気持ちの良い顔で笑う羅冴流に無乃もにこりと頬笑む。ふと親指の傷が痛み、無乃は見えないように手を後ろに隠した。
この手を握って呪いをかけたと徐明は言った。やがて死ぬと。
呪いをかけられて死ななかった人はいない……
徐明が死相を見抜くなら、死期の近い人間を選んでいただけのことだろう。張浮の性格を無乃だって見抜けるのだから、少女も利用したはずだ。呪いなどあるはずがない。
無乃はゆるめた指輪をくるくると弄び、背を向けて棹をさす羅冴流の指輪が、一体どれほどの強制力を持つだろうかと考えていた。
こんな小さなもので羅冴流の心を留めておけるわけもない。
「……羅冴流、次、君に指輪を返したときは、追いかけてこなくて良い」
「報酬を払ってから言ってくれ」
怪訝な顔をして振り向く羅冴流に無乃は微笑んだ。
「君はきっと一生遊んで暮らせるよ」
「貧乏な君が、どこからそんな金を?」
「私には色々な可能性が秘められていると思わないか? どんなものだって生み出せると」
「だが、子どもは作れない」
無乃は「うん?」と首をかしげる。何か覚えのあるやり取りのようだ。戸惑う無乃に羅冴流が不満な顔を隠した。
「張浮を伴侶にするって?」
「どうしてそれを知っている?」
あの場にはいなかったはずと首をかしげる。なぜそれを知っているのだろう。
「否定して――」
そんな縋るような目つきに一瞬見つめられ、無乃はどきりと胸の違和感を覚える。と同時に悩ましげに頬に手を当てた。
「複雑な関係なんだ。友人とも言えない。けれど他人ではないのだし、この関係を他になんて言ったら良いか……」
「丁度良い言葉がある。そういうのを、知り合いっていうんだ」
素っ気ない口の利き方に無乃は手を下ろし、ふっと綻んだ。
「なら、君との関係はどう定義したらいいのだろう。知人か? それではあまりにも、君は近すぎるね」
羅冴流の後れ毛に昼下がりの光りが散っている。
小舟は静かに白日の川を進む。羅冴流はそのちらちらと光る水面に、鬱陶しそうな顔を作っているが、ひょっとすると眩しそうに目を細めているようにも見えた。無乃の思いがけない言葉を密かに噛みしめているのだろう。
そのわかりやすい姿をにこにこと見つめ、無乃はさらに前屈みになる。
「ところで、あの猫、君が連れて行ったみたいだけれどどこへやったんだ?」
「結局、万紅雪が面倒を見ることに決まったらしい」
「結局?」
まるでじゃんけんにでも負けたような口ぶりだ。
それにしても、万紅雪の名前がでてくるとは思わなかった。羅冴流がどこで彼の居場所を掴んだのかもわからないというのに、猫さえ贈りあうほど親密な関係だったなんて余計に思いつきもしなかった。
「君も、秘密が多いね……」
まさかあの巨船、仕組まれていたとでも言うのだろうか。荷華幇の人間が船主の我氷津に成り代わり、さらには姪の少女は仮病で、青菊も偽物だった。
羅冴流と万紅雪が手を組んで無乃を待っていたと考えれば、羅冴流が万紅雪の女装を見逃した理由も納得できる。
なんて用意周到で、信用ならない男だろうか。
船に乗り込んだときから君が張り巡らせた糸の中に閉じ込められていたというわけだ。
それほどに悪主座が憎いというのなら、私は悪主座らしく、君の毒牙を待ち受けるよ……




