(八)
墟里の境、薄原が靡き馳せるあたりに暁霜門という一門がある。
主座は葉契発。生まれつき強い法力を持つ男だった。
彼の姿や顔を目にした者達はことごとく故郷を失い、あるいは四肢を損失し、家財が流失、ひどいものでは命を落とすものもいたという。
一人残らず不幸な目にあうにもかかわらず、彼の身に宿る法力のすさまじさは離しがたく、この霊験あらたかな男を主座として畏れ敬い、不言不語を結んだ門弟一派から微笑の仮面がかぶせられると、ほとんど部屋に閉じこもりきりだと聞いていた。
古代から対にあたる晩景門の地とは双胎霊山と呼ばれるほど因縁が絡んでいる。暁霜門より早くに廃れた晩景門に縁もゆかりもない無乃が主座としておさまり、やはりすぐにその地位を追われたのは道理で、元々器ではなかったのだ。
当時、暁霜門と交流が全くなかったというわけではない。葉契発の身体中に括り付けられた紐が開かずの間の扉から夥しく四方にのび、中から聞こえてくる衣擦れが心をかき乱した。門弟たちの手に熱心に握られているのを、魔性の放つ色香のかすみの中、ひしひしと迫る孤独感に身が絞られるような思いで立ち去ったのだ。
「一門というのは、師を持つもの、弟子を持つもの、その全ての門派を問わず、門人門下諸々のことだ……」
葉契発の人柄を思い出そうとしていた無乃は男のせりふにまずいな、と瞼を伏せた。
狸寝入りをしていた彼はおそらく、無乃と羅冴流の会話を盗み聞きしていたはずだ。晩景門の悪主座というやりとりも、彼は聞いたはず。
無乃は柔く唇を噛み、焦りを胸に秘めて微笑した。
「悪いけど、それは協力できそうにない」
「見つけるだけでいい。命を奪うのは、俺たちがやる」
男が背を向けてゆっくりと階段を下りていく。宣彩がついて行けと顎を決った。無乃はちらりと視線を走らせた。窓の向こうに人がいると思ったのだが、真っ暗で誰も見つからない。挨拶をするわけにもいかず、諦めて男の後に続いて外に出た。
「残念だよ。君たちが正義漢であればよかったが」
「悪党を成敗しているのは俺たちだ。十分正義漢だろ」
夜はますます更けていく。
風もなく、月も星も静かに光を放っているだけで、虫も声をひそめている。
土を踏み、石を転がす四人の足音だけが、真っ暗闇にザク、ザク、と聞こえてくるのみであった。
その静寂を、男のざらついた声が破った。
「俺たちの村を襲い、親族を根絶やしにし、病人の命まで悪戯に葬った、あくどい男――晩景門の、悪主座無乃――」
ぞくりと鳥肌が立つ。
無乃は咄嗟に立ち止まった。
いつの間にか男が歩くのをやめていたのだ。そのすぐ横を通り過ぎていた無乃は、背中に男の声を聞いていた。
やはり、と無乃は殺気を感じて身構える。
最初から盗み聞きをして機会をうかがっていたのだ。
振り向きざまに飛び退こうとした体が突然、ぐいっと思いもよらない方向に引っ張られ、羅冴流に引き寄せられていた。
しまった、こちらにも味方かわからない灰色の男がいたのだった。と慌てて振り払おうとするのと、男が剣を振りかぶったのは同時である。
――みすみす仇を、他人に譲るはずがない。
月の光を帯びる冷たい刃が目の前に振り下ろされる直前、無乃は羅冴流の復讐心に賭けていた。
間一髪、無乃は軽々と後ろへ投げ飛ばされる。よろめきながら、男に斬り込んだ羅冴流の鋭い一撃を目にして、自らの体がまるで真っ二つにされるような恐怖に息を呑んだ。――それも束の間である。
空を裂いた羅冴流の剣は、突如と影から沸いて出たような青年に受け流されていた。
「誰なの――!」
宣彩の心細い悲鳴があがる。
咄嗟に短剣を抜き放つ彼女に容赦なく重い蹴りを与え、羅冴流の剣をも受け流したのは、まさかあの、万紅雪だ――
「どういうつもりだ、万紅雪!」
突然現れたことよりも、女性の:宣彩に手加減しなかったことを無乃は声高になじっていた。それを万紅雪が不機嫌な顔でじろりと睨み付ける。
「手加減しろっていうのか? 俺が殺される」
未だに戦意を削がれていない重傷の男が、無乃と万紅雪のやり取りの傍で構えていた。すると羅冴流が呆れたように息を吐いた。
「……晩景門の悪主座は、喬大雀の誉れ名をもって殺したはず。誰の手にも届かないところにその誉れ名を吊しているのに、誰を殺すって?」
その正論といえる言葉と冷たい眼差しに男がたじろいだ。
「だが、お前たちの話していたことが本当なら、悪主座、無乃は生き延びていたということになる……!」
大粒の汗を顔中に浮かべ、反撃の機会を伺っていた男がハッと羅冴流に飛びかかる。しかし羅冴流に切っ先が届くより早く、万紅雪の見事な回し蹴りによって剣は弾き飛ばされ、傷口に遠慮した羅冴流が、仰け反った男の首を鷲掴みにした。
ぐぅっ、と苦しげに泡を吹く男を見て、倒れた宣彩を木陰に寝かせていた無乃は慌てて駆けつけた。
なんて忙しいのだろう! と、子どもの歩みよりゆったりとした足取りで汗を拭いながら。
「離してやれ、羅冴流。君に人殺しをさせるわけにはいかない」
睨むような、それでいて呆然と眺めるような曖昧な視線を無乃に向けて、羅冴流はすぐに手を離した。
これで一安心かとおもいきや、羅冴流はすぐさま万紅雪に鋭い殺気を放っていた。
「張家では一切協力しなかったお前が、こんな男を相手に飛び出したのはまさか、俺を助けたつもりか?」
「張家? わざわざ俺様が労力を惜しむようなことでも起こったか? それをいうなら、あんたこそ傍にいながら易々と傷をつけられてる。俺を責められる立場かよ」
容赦のない一瞥を与えて油断ならない羅冴流に、万紅雪も応じるように憤りを見せた。
二人が喧嘩でも始めたら収集がつかない。そんな予感に駆られ、無乃はゆっくりと羅冴流の手をおさえ、青筋を浮かべる万紅雪の腕に優しく触れた。
「羅冴流、万紅雪、剣をしまってくれるかな。まず、聞きたい事が一つある――、翠致幇が出しゃばってきたということは、奇秀のことだろ」
紙一重の触発を前に、猛る二人の間に入る無乃のやんわりとした笑みを二人が目にすると、まるで示し合わせたように息ぴったりと、剣をシャッと素早くおさめてしまった。
体つきから不満を隠せない万紅雪の若さに微笑みながら、無乃はありがとう、と瞼を伏せる。
すると万紅雪がフンと腕を組んでやや傲慢気味にいった。
「その奇秀を、偽物か本物か、確かめるには医者しかいない。とくに顔と脈を診ただけで病を治せる無乃先生なら間違いないって結論が出たんで、あんたが判断しろ」
無乃はこの、二つ目の嵐の目が思いのほか短気だったことを忘れていた。
最後の三つ目、その嵐の目とは他ならない喬大雀のことだが、今はまだ彼はこの騒ぎに乗じるつもりはないようだ。
「医者でもない私に偽物か本物か確かめられるわけがないよ」
「偽物だといえばそれでいいし、本物だというなら、首魁も浮かばれる。ついて来い」
そんな適当なことでいいのだろうか? と無乃は苦笑いした。
宿を後にする無乃たちの背後では、すでに斬り掛かってきた男も宣彩も姿を消していた。




