無道無乃(三)
腰に房つきの剣を帯びた剣客、羅冴流は無乃の手を突然胸の傍まで引き寄せ、凜々しい口元に美麗な笑みをさっと靡かせるように浮かべた。
「あの男は君の従者か?」
腰を抱きながらも、声を低く落とし、無乃にそそぐ視線は鋭い。
それにしては随分優しく手を取るものだと、無乃はのんびりと微笑を返した。
「ああ、あの、羊群のことかな?」と、とぼけた顔をして、どうだったかなと額を押さえる。
「確か、街で雇った担ぎ夫で従者ではない。てっきり我さんの使用人だと思ったけれど、どうして君がそれを知らない?」
「確認だよ」
羅冴流の甘い顔付きに覗き込まれ、無乃は一瞬ためらった。
羊群が従者でないと知っておきながら、わざわざ確認を? 何か探られているようだな。
「君の方が彼について詳しそうだ」
にこりと微笑みながらぐるぐると思考をめぐらせる。
おかしな事に巻き込まれてまた悪名が増えるのだけは困るので、無乃は少し慎重になった。
雪のような肌に目元のほくろ、素顔を知られているために食事中も治療を迫られ、茶碗を片手に藪の中に逃げ込めば、ついには無銭無乃と罵られるはめになった。
さらには何を勘違いしたのか、片っ端から潰した蚊が血を吸ったばかりだったために、捕吏に引きずられる血まみれの無乃に、とうとう人間まで食ったと言いふらされる羽目になった。
極め付けは、たまたま親を失ったばかりの子どもが通りかかったことだ。親の仇と思い込まれて命を狙われたので、これ以上悪名を抱える趣味はない。
さて、この警戒心の強い男をどうやって遠ざけようか?
指先の強張りも息遣いも、身体をぴたりと密着させる羅冴流に知られている。表情なら誤魔化せるが、身体の反応をこらえるには難しい。
……仕方がないかな。
無乃は覚悟して、けれどしれっと羅冴流の手を深くにぎり込んだ。
「他に、聞きたいことはないのかな?」
絡まる暖かなひとさしゆびに、羅冴流の目が大きく見開かれる。
さすがの羅冴流も、まさか尋問相手から手を握り返されたことはなかったようだ。虚を衝かれ、手に重なるしなやかな指に、少しずつ顔が真っ赤になってゆく。それを見た無乃は、「嫌がらせてしまったかな、もう触らないよ」と咄嗟に両手を後ろに隠した。
「尋問は、おしまいかな」
ほこらかな微笑を浮かべる無乃。
羅冴流は手を離してしまった自分に驚きながらも、白々しい無乃の様子に呆気にとられ、次の瞬間、喉をくっと引っかけて爽やかに笑った。
「急ぐこともない。噂通りの人物か見極めるには、時間は十分にある」
そんなふうに腕を組んで見つめられ、無乃は「おや?」と背中に冷たい物が流れていく。
「羊群のことを、言っているのだよね?」
「なぜ聞き返す?」
風に漂う綿毛の様な男に、羅冴流は思いもよらず興味が惹かれているらしい。
我氷津の前に投げ込まれたこの色白の青年が、まさか晩景門の主座、無道無乃だとはどうしても思えない。その真偽も含めて確かめてやるつもりだったのだが、どうやらうまくかわされてしまったようだと羅冴流は浮かない顔だ。
「無道無乃。……どんな秘密が隠されている?」
無乃は平然としながら、さっと口元に微笑を掠めた。
「私は世間に知られているように悪逆無道で極悪人。心を入れ替えて人様のために身を粉にする、ただの貧乏人だよ」
羊群に盗まれた干し草を取り戻し、二年前の約束のため翠花百雷へ向かっている遊客でもある。
無乃は落ち着きながらも、青菊の部屋へと向かう足取りには心なしか焦りが滲んでいた。
羅冴流の見透かすようなあの、鋭い視線のせいだった。
――――――
木枠は吉祥の図柄を描くガラス戸の前。
山椒の木を象った繊細な倒流香炉からは、雲に見立てた豊かな白い香煙がゆったりと流れ落ち、窮屈な舟の一室に美しい情緒を結んでいた。
紅玉の実をつけた珊瑚樹は香煙に包まれて幽境の景色を作りだし、鳥の形をした簪は仙女のような青菊の黒い髪に尾をピンと立ててとまっている。
青菊の部屋である。
湖の縁に暮色が漂い、窓に垂らした透かしの紗から差し込む斜陽は少しずつ色褪せていく。浮かぶいくつもの船が夕闇にのまれて直に夜だった。
部屋の中には青菊という名の娘と、帳を下ろす鮮杏という高齢の侍女が見えていた。
「どんな病でも治すという、あの有名な無乃、様……?」
男性的なすっきりした顔立ちを布張りの団扇の下に隠し、青菊は恐ろしげに身体を抱きしめる。
「患部を見せてくれますか」
くつろいでいた青菊の足元に膝をついて、無乃はさっそく袖をまくった。その姿に慌てて身体を端へ寄せ、青菊は逃れるように垂れ絹の後ろへ隠れてしまう。
「明日でも、構わない? こんな時間に訪ねてくるなんて失礼だわ」
最初は弱々しく、けれど言い終わるころには眉をつり上げ、我氷津のように語尾を荒げる。
無乃は窓の外の夕闇をみつめて、確かにそれもそうだと瞼を伏せた。婦女の部屋にあまり夜遅くまではいられない。だからこうして診察を迫っているのであって、青菊は手こずらせているのが自分自身だとは、少しも考えが及ばないらしい。
「一つだけ教えてください。病に悩まされはじめたのは、いつ頃ですか?」
「覚えていないわ、そんなこと。さあ、答えたのだから、早く帰って」
青菊は終止、喉を狭く絞った様な声で喋っていた。その押し殺した苦しげな声に、無乃は伏せた瞼をひくりと動かす。
なにか、どうしても身体を見せたくない理由がありそうだ。
「私に触られたくないのなら、かわりに鮮杏さんにさせましょうか」
きゅっと唇を結んで青ざめた青菊に息を吐く。無乃は切り出してから前に進み出たが、腰の曲がった鮮杏がそれより早く、さっと、風のように立ち塞がった。
「無乃様、日が落ちました。変な噂が立つと困ります。また明日、おいでください」
湖の上はすっかり夜であった。黒目の若々しい鮮杏を見つめながら、無乃は穏やかに微笑む。
「ただの医者と患者の関係で、誰も詮索するようなことはしない。帰るときは人目を忍ぶとお約束しますよ」
といって無乃はもう少し粘ろうとしたのだが、業を煮やした青菊が羅冴流を呼びつけたせいで簡単に追い出されてしまった。




