無道無乃(二)
晩景門の元主座、悪逆無道の極悪人、無道無乃。
悪事を働いたために弟子たちから一門を追い出された悪名高き師……なのだが、無乃は実際、弱々しい騾馬をひきひき、四方を訪ね歩く貧しい遊客だった。
そんな無乃は果歩という町の船着き場で船に乗り込むと、干し草をたっぷりつめこんだ籠をどさくさに紛れて盗まれ、羊群に押されるままにある一室に放り込まれた。
「我様、言われたとおり、無乃をお連れしましたよ!」
羊群の遠ざかっていく叫び声を耳にしながらも無乃はしまったなとどこか他人事のように瞼を伏せている。
騾馬の熱い吐息に蒸れた、ただの干し草だ。しかしあれがないと困ってしまう。
何せ、高価な代物一つとないのにわざわざ担ぎ夫を雇うのは、すべて騾馬のためなのだ。あの騾馬は目の前に干し草がなければ動かない。さらには人が乗っていないとこれもまた全く歩こうとしない怠けものなので、少なくともこのものぐさの乗り物を連れて歩くには無乃とは別にもう一人必要だった。
目つきが悪くいつまでも売れ残っていた騾馬を、なかば主人に押しつけられるように買わされてしまったのだが、馬のくせに山道を嫌がり、石を踏んだだけで拗ねるようなあの馬を、私以外にかわいがってくれる人がいるだろうか……
無乃はしっとりと青色の息を吐く。
たっぷりと香を焚き、金銀の上から銀朱を塗り込め、紫檀に大理石をはめ込んだ腰掛けと、五彩の茶壺がこれもまた精巧な紫檀の卓の上に並ぶ煌びやかな部屋の様子には、まだ少しも気づいていない。
巨船の主、我氷津の部屋だ。
「どんな病でも治すという、あの晩景門の無道無乃か……?」
我氷津は突然部屋の中に転がり込んできた青年に呆気にとられた。悪事の限りをつくした主座。一門を震撼させた大事件の首謀者ともいわれるのだから、相当な手練れと身構えていたのだが、それとは無縁のおっとりと笑みを漂わせる美貌の青年に、我氷津は束の間、医者のいの字も知らなさそうだと大いに面食らった。
無道無乃といえば、花柳街を席巻した名妓の逸話が有名だろう。どこからかさっと現れると、手立てを尽くして治療にあたった医者を差し置き、美声を失った彼女を再び歌わせてみせたのだから。
さらには暴君として有名な男に対して一人で事に当たり、無乃が帰る頃にはすっかり人が変わったように大人しくなっていたという。
その無乃は今、美しい薄絹が霧のようにゆれる部屋の奥を見つめていた。
男の影が二つ、波を打っていた。一つは寝椅子にゆったりと腰かけている大柄な男。我氷津のものだ。
もう一つは、窓の前で静かに腕を組んだ若い男。野生的な身体を大胆にもたせかけ、薄絹越しに鋭い視線を投げかけている。その眼差しにどこか引き寄せられるように無乃はまっすぐ彼を見つめていた。
すると寝椅子の男、我氷津が落胆を誤魔化して咳払いをした。
「私が我氷津だ。この舟の主で、羊群にあなたを連れてこさせたのは、私だ」
舟はゆっくりと動き出している。無乃は我氷津の言葉が終わるのを待たず、素早く湖岸に視線を走らせた。巨船の周囲には何艘もの護衛船が付き従い、その警戒の物々しさにはただならぬ気配がある。水の上では逃げ場がない。その困惑が眉目に浮かんだ。
「まさか私を閉じ込めるつもりか……?」
「何人もの医者を呼びつけたが、揃って匙を投げ出され、ついには原因も分からず奇病扱い。ひいては、貴殿には姪の病を完治させるまでここにいてもらいたい。船代は治療費にかえよう。もし協力してくれるのなら、舟に滞在中は個室を使ってくれ」
我氷津がすまなそうな声で言う。
けれど名だたる医者にも治せない奇病を、貧乏な遊客の無乃に治せるはずがない。
穏やかな顔で我氷津を見つめながら無乃は心の内で息を吐いた。
「羊群を脅し、私のことも脅すとは……。どんなに金があろうと、人にものを頼む態度というものがあるはずですが、あなたはそれをお忘れのようだ」
我氷津ははたと、言葉を失った。何を言われたのか咄嗟には理解できない。そんな顔をして無乃を見る。
「依頼を、断るというのか?」
有名な医者をかき集めても治せなかった巨船の主、我氷津の姪の病。それを完治させたと風聞が広まれば、いっそう医者としての箔がつくだろう。そういう野心の強い医者ばかりが挙って乗り気だったのに比べ、この若者のやる気のなさといったら。
いくら悪逆無道とはいえ、各地から呼び寄せた医者は行方をくらましてしまったし、我氷津もこのうさんくさい医者に頼る他なかった。その焦りと、怒りである。
わなわなと握り締めた拳を卓の上にドンと殴りつけて声高に言い放った。
「うだつの上がらないお前の様な貧乏な医者に、患者を用意させているのはこちらだぞ。折角機会を与えてやっているのに、さすがは悪逆無道の無乃か! 何が欲しい、いってみろ!」
声色に怒気を強め、唾を散らす我氷津に無乃はやんわりと瞼を伏せる。
「あなたに私の欲しいものが用意できるとは思えません。それにもし本当に奇病なら、私に手の施しようはない」
「羅冴流――!」
我氷津はまるで叱り飛ばすように傍の男を呼びつけた。
「無乃殿を、青菊のところへ案内してやれ!」
有無をいわせない怒声に、窓に寄りかかって腕を組んでいた男が、ゆったりと息を吐きこぼす。
「了解――」
どこか気怠そうに返事を寄越す掠れた声は、今し方目が覚めたように甘い。薄絹を割る指先から、獣のようにしなやかな身体が姿を見せた。日射しにやけた逞しい身体には潮風がまとわり、戸惑う無乃の手を優しくとりあげる彼に、無乃はそのまま部屋の外へと連れ出された。




