無道無乃(一)
「雇ったのは、早計だったかな……」
のんびりと騾馬の背に揺られながら、無乃は柳眉をくもらせた。
「これでは翠花百雷につく頃にはすっかり冬になってしまうね」
汗だくの騾馬を労うのは、目の下のほくろに哀愁を漂わせる、澄んだ瞳の美男、無乃である。
もう何日も遠回りさせられているので、ひしめく不満につい胸の内を零してしまった。
夏霞にけぶる名山、百花山は黛色に黒々と豊かに横たわったまま一向に近づいてこないのだから、遠くを見つめる眼差しは物憂げに潤むばかりだ。
騾馬の手綱を引くのは担ぎ夫の羊群という小男で、聞くところによると山向こうの翠花百雷の生まれだという。
しかし……と無乃は心のとろけるような美しい顔に悩ましげな息を吐く。
――もしかして、道をしらないのではないだろうね? もしそうなら、弱ったな……方向音痴な者同士で歩いていたってどこにもたどり着けやしない。
無乃は胸の辺りがずんと重くなる。ますます肩を落とすその傍で、案内役の羊群も浮かない顔をしている。
風は爽やかだ。
小男は青々と豊かな草原をブツブツと呟きながら少し歩いたかと思うと、やはり引き返して立ち止まる。そんなことを繰り返すこと四度、午を過ぎた頃、俄に曇りはじめた空が途端に割れて、突然の篠突く雨である。
今まで雨にだけは降られたことがなかった無乃はさすがに落ち込んだ。
「羊群、雨宿りできる場所まで、戻ろうか」
と優しく声をかけるが、気づいていないのか、この小男は歩き続けた。そんな羊群の背には干し草がたっぷりと篭一杯に詰め込まれている。無乃はのんびりと困ったな、と微笑んだ。
「騾馬や、いいかい、羊群を追いかけてはいけないよ、あそこに大樹があるから、あそこへ行くんだ」
と、騾馬の耳に優しく囁くが、無乃の言うことを最初から素直に聞くような馬ならば、三週間も草原にとどまるようなこともなかっただろう。
やはり雨の中羊群を追いかけ回したので、おかげで跨がっている無乃までもれなく全身ぐっしょりとずぶ濡れになってしまった。
心は痛むが、これほど足止めを食らっては旅どころではない。いよいよ別れを告げるべきだと決断し、口を開きかけた無乃より先に、ふっと顔をあげる羊群が切り出した。
「翠花百雷には、何をしに行かれるのですか?」
と。
疲れ切った顔をしながらも初めてまともに口を利いたのだ。無乃はにこやかに首をかしげた。
「私邸に招いてもてなすというので、花苑を見に行こうと思ってね」
翠花百雷の宿駅の長から、是非貴殿にも来ていただきたいと言葉をもらったのは二年も前のこと。きまった住処を持たず、根無し草のようにあちこち歩いてまわる無乃に二通目の手紙があっても届くことはほとんどない。なのだから、今更訪ねに行っても怒られないだろうか。手紙の主も健在であれば喜ばしいのだが……
とそんな不安もいくらかあって、無乃は困ったようにくたりと笑った。
すると羊群は青黒い顔をますます憂鬱にさせた。
「ある金持ちが、手段を選ばず医者を呼びよせたと聞きました。しかもその医者は患者の顔色と脈をみただけでどんな病でも治すというではありませんか。もしかすると、あなたがその、無乃ではないですか?」
気ままに歩く旅行者の無乃は薄汚れた灰色っぽい桜色の長衣を身に纏っている。ゆるく括った頭髪は医者と言えば医者らしいが、あまりにも歳が若すぎる。半信半疑の羊群が、それでもこの男は噂の無乃に違いないと思い込んだのは、ただ特徴的な目元のほくろだけである。
無乃は優しく微笑んだ。あまり期待されてもがっかりさせてしまうだけだということを、この二年ほどの旅で十分に思い知っていたのだから。
「なんでも治せる医者がいれば、今頃病で苦しむ人などいないだろうね」
いかがわしい主座の無乃は門を追われたのだよ、と穏やかに微笑んでいう。
羊群はかえってひどく確信を得たようだ。金を無心するような暴虐な医者でない事は確かで、それにこの若者は自らの立場を弁えて謙虚であろうとするのだから、ますますどんな病でも治すというあの無乃に違いないのだと。だからこそ、羊群は同時に心も痛めていた。
「旦那様、あなたは、無乃なんでしょう。従者もつけず、痩せた騾馬で旅をするような人など他にいません。この際、あなたが無乃でなくてもいいんですがね。私はずっと探していたんですよ」
「探していた?」
戸惑いを押し隠してにこりと微笑む無乃に、羊群はいよいよ覚悟を決めたようだった。顎を突き出し、細い足に体重をのせ、老人のように丸まった身体でのっそりと大股に歩きだす。
「この先に……」
と指をさす彼は何かやましいことがあって無乃の顔が見られないようだ。
「この先に舟がとまっているんです。翠花百雷に行くなら、その舟に乗って頂かないと困ります……」
意を決して彼はそう告げた。指の示すその場所は霞に覆われてさっぱり何も見えない。突然元気よく騾馬が歩き出す。羊群が勢いよく綱を引っ張ったのだ。無乃は騾馬を落ち着かせながら内心焦りはじめていた。
「その舟の主に、私を連れてくるように脅されているのかな?」
「何人もの医者が治療を試みましたが、誰も治せない病だというんです。しかも医者は皆必ず行方知れずになると言うんです。私もただ、あなたを連れてくるように言われているだけで……」
「まさか、私にその病を治せというのではないだろうね?」
医者にしては消極的な物言いに、羊群がちらりと無乃を疑わしげにみた。
「人助けですよ、旦那様。これでも私は顔が利くんです。とびきり贅沢な客室を用意させますから」
浮かない顔で呟いたきり羊群は再び無乃の問いかけには、ほとんど何も答えず黙り込んでしまった。
人助けと言われてしまえば断るのもしのびない。
瞳に悲哀の色を深め、遠い旅路を眺める無乃はおっとりと息を吐く。
また翠花百雷への道が遠のいてしまったので、心は見果てぬ地にもどかしくなるばかりだ。
「羊群、騾馬に頭を囓られたら、言ってくれ」
きっと手紙の主は首を長くのばして到着を待っているに違いない。もしくは、手紙を出したことさえとっくに忘れてしまっただろうか。
そんな風に無乃は山の端に消えかかる夕日をぼんやりと見つめていた。




