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無道無乃  作者: 海原津子
朱花に染まる
29/41

(二)

「おい、」

 とまるで睨むような張浮(チャンフー)の声。真っ直ぐ歩くのももたつく無乃(ウーナイ)の首に腕を回して呼び止めていた。

 ぐっと喉をしめられた無乃はたまらず足をとめ、「苦しいよ」と振り払おうとするのだがそのまま固まってしまう。張浮の腕にまだ乾いていない鹿の血がついていて、それをどうしても触ることができなかった。


 呆然と立ちすくんでいると、張浮がほくろのある方の顔を軽く叩いた。

「片眼はまだ見えないままか?」

 無乃はちらりと張浮を見る。にこりと微笑んで目元を指さす。

「何が見えていると思う?」


 見えているはずがない。とっくに視力はないのだから。けれどわざわざたずねたのは、張浮へのちょっとした反抗でもあった。

 張浮は気分でも悪そうな顔で無乃の目を確りとのぞき見て、生気の感じない濁った黒目に「気味悪いな……」とぼやく。親指を眼球のすぐ傍まで近づけてみても無乃の瞳はそれを追うことができない。張浮はすぐに、無乃に揶揄われたなと察した。


「その弱々しい歩き方、演じてるもんだと思ったが、本当に見えないとはな」

 ぱっと捨てるように手を離す。

 無乃はなぜ彼が目を気にしたのだろうかと不思議に思いながらも、口元の笑みを絶やさない。


「雑談をするのか? いいね。私もおしゃべりは好きな方だよ。何しろ、病の源はすべて語りによって得られるものだからね」

 無乃はふらふらと血塗れた床を避けながら、なるべく端の方を歩いている。蹌踉めいて壁に手をつこうとして、散った飛沫の痕に慌てて手を離した。


「弟子に殴られて失明したんだろ」

 張浮は真っ赤な寝台に腰掛けていた。わざとらしいほど隙の多い無乃の動きと、油断しきった背中に思案を重ねている。誘い込まれているのか、もしくは強者からの余裕か、その判断がつかなかった。けれど無乃自身、随分困ったような顔をして、張浮につけられた顔の血を嫌々拭っているのだから、さらに無乃のことが分からなくなる。


 悪主座と言えば人殺しも平気でするような悪党だったはず。

 そんな風に苛立っているとは無乃は少しも思わず、ゆっくりと水たまりをこえた。

「晩景門が暴力をおしえたことは一度もないよ」

「いかがわしい一門、聞くに絶えないことをしていたとか」

「いかがわしくされてしまったんだ。まったく」


 これもまた、厄介なのだ。

 無乃はにこにこしつつ、思わずでかかった恨み言を飲み込んだ。

 悩み事を考えるには恐ろしいほど暇がなくてありがたいがね。


 しかしそれを対処する時間も、人手も同じように暇がない。弟子はそれほど多くはなかったが、それでもほとんどが出て行ったときいた。

 人体に深く根を張り、繁った林のように悪主座の名が広まってしまったのだから、無乃一人で対処できるはずもない。


 私のことを大悪党だと、最初に突き放したのは故郷からも見捨てられた星夕《シンシー》。一番弟子だった。

 弟子に一門を追われる主座なんて無乃くらいだろう。

「ところで、君こそ足がよくないみたいだね」


 無乃は炊事場はどっちかなと首を巡らせる。池でもいい。蓮の根をたわし代わりに、まあ、たわしでなくても、張浮の身体についた血を落とせるのならなんでもよかった。

「炊事場は入ってきた方にある。そっちに行くなら、俺の代わりに飼育している子猫にも餌をあげてくれないか。餌は張菫《ちゃんちん》の部屋だ」


「いいけど、この腐った臭いは君からしているんだね。重傷ならなぜもっと早く医者を呼ばなかった?」

 張浮が足を組み替えたとき、その腐臭が漏れ出したようだ。隠す気はなかったようで、張浮は少しも驚かずに冷ややかに言った。


「友人のお前に、見てもらいたかったからさ」

 引きずっている足は大きく腫れている。肉ごと削いでしまったようだ。包帯も巻かず、腐り始めた患部に蠅が卵を産みつけてはじめていた。痛いはずだ。それでも張浮は表情の乏しい顔にかすかな笑みを浮かべただけだった。


 無乃はおや、珍しい、と彼の緩んだ顔に微笑する。

「寝るところくらい、清潔にした方が良い」

 無乃はすぐに部屋を後にした。


 盗賊らしくない張浮の風貌は武器よりも楽器を持つ方が似合う。元々は翠致幇の下っ端として水辺の町で仲介をやっていたが、運悪く盗賊の襲来に出くわし、金品人員、一つ残らず略奪され、この男も掠われた。掠った盗賊団の首領、張常は丁度妹の張菫から盗賊稼業を遠ざけようとしていたから、風貌の目立たないこの男と決め、義兄弟のちぎりを交わし、実の兄弟よりも気にかけたのだ。


 ひどい火傷を胸に負った張常の処置に、まだ十八にも満たなかった頃の無乃は手を震わせながらその経緯を聞いていた。

 あのときはすでに手遅れで、無乃にできることなんてほとんど何もなかったのだ。



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