(一)
林灰坡という朝顔の青さが蔓延る盗賊団の町で、張家の首領、今はその義弟の張浮がおさめていた。
その張浮の屋敷に入るまでに町の隙間を埋めつくすように朝顔が鮮やかな紺碧を芽吹かせているのだから、廊下にまで漏れ出す強烈な錆び臭さと張浮の荒んだ朱色の部屋を前に、無乃は目眩がした。
寝台は恐ろしいほどに赤い。
彼にとって寝台はただ食事をする場所でしかなく、まだ真新しく濡れ滴っている紗を鬱陶しそうに投げ捨てたその男が、悲愴な顔つきで無乃を睨み付けた。弾んでいた吐息を少しずつ落ち着かせ、ゆっくりと床におりたつ。
「……無乃だと?」
あっさりとした顔立ちの男だった。血を啜ったばかりだというのに唇は忽ち罅割れて、満足のいっていない目つきで無乃に向かって歩いてくる。彼の身体はまるで上から浴びたように全身血まみれだった。組紐で括られた赤毛は血が乾いたために真っ黒に固まっている。
一晩中血を浴びていたのではないだろうか。そう思えるほど、獲物となった獣の匂いが部屋中にしみこんでいた。
これほど恐ろしい男だったか? 無乃はとりあえず距離をとり、ぎこちなく強張った頬を何度かぺしぺしと叩きながら、やはりいつも通りやんわりと美しい微笑を浮かべた。
「老僧があなたの病に協力して欲しいと、けれどどうやら私の手にはおえないようだ」
さっと踵を返して逃げようとする無乃を捕まえて、張浮は激しく無乃の身体を抱きしめた。
「無乃、お前はやはりすぐれた男だ。悪逆無道の晩景門の主座、俺の旧き良き友人! おかげで、俺にもようやく機会が巡ってきた。お前が義兄を殺してくれたおかげでな! どれほど会って礼を言いたかったか。来てくれてこんなに嬉しいことはない!」
無乃は全身冷や汗をかいていた。できれば遠慮したい再会の熱意である。
身体を離されても臭う血なまぐささに青白い顔をして無乃は微笑んだ。
「殺しただなんて……」
言い方が悪い。
確かにきっかけは無乃が作ったようなものだが、実際に首領を陥れたのは君たち家族だ。
「迎えも寄越したはずだがな? 知らないはずがないよな。なぜ逃げる? 我氷津の船に乗っていただろ」
やはり、羊群が教えてくれたのは張の盗賊団だったのだ。逃げて正解だった。けれど結局引っ張り出されてしまったのだから無乃は頭を抱える。
張浮――
腹には確かに無乃に対してどす黒い物がありそうなのだ。
以前、無乃を捕まえた首領は張常といって彼の義兄であり、胸焼けをどうにかしろと脅してきた男だった。無乃が適当に処置を言って逃げたために数日後に命を落としたと風の便りで聞いた。
当時、体調を崩していた無乃を張浮だけは気遣ってくれたのだが、友人だと声高らかに歓迎される筋合いはない。
「他の医者を呼んだ方が良い。君も知っての通り、私は藪医者だからね」
こんな不気味な男とはいられないよ。そう言って帰ろうとする無乃に、張浮が脅しつけるようにべったりと血塗れた手で肩を抱き寄せた。
「おい……無乃、忘れたのか? 俺とお前の仲じゃないか。久しぶりに再会したっていうのに、それともなにか、俺を助けたことが間違いだとでもいうつもりか?」
胡乱な眼差しで覗き込む張浮だ。
張浮の手は青筋を浮かべ、容貌は苛立っている。無乃は静かに瞼を伏せた。
義兄の張常には強欲で明晰な弟が二人いたはずだが、その二人よりも妹の連れてきたこの平凡な男に入れ込んだ。元々傲慢な気質だったのが張常のおかげで磨きがかかり、この数年でさらに悪化したらしい。世に溢れる宝物や美女は全て自分のものにできると疑うことさえしなくなったのだから。だからこそこの小汚い医者一人くらいどうすることもわけないのである。
そんな不遜さを感じ取り、無乃は余計に捻くれていた。
「張浮、君を助けたわけではないよ。第一君たちは盗賊団で、私も身包みを剥がされた被害者だ。おかげでこんなに薄汚い衣服を着るはめになった」
ふんと不愉快そうに鼻を鳴らし、張浮は無乃の汚れている胸元を叩く。
「似合っているじゃないか。薄汚い医者に、薄汚い衣服。何が不満だ? 世間では随分立派な噂がたっているようだが、盗賊団にはその優しさの一欠片でもかけてやる義理はないって? 子猫のような可愛い顔をして、お前はやはり噂通りの悪逆無道、極悪人なんだな」
無乃はやわらかく微笑んだ。
「その極悪人という呼び方、あまり好きではないんだ。やめてくれないかな」
無乃は言いながら、獣臭さと血のにおいが入り交じった部屋に恐ろしいと思わずにはいられないのだった。寝台の影に散っている体毛はまだ暖かく脈打つばかりの鹿の毛だ。少し前まで生きていたことを思わせるような生温かさを感じさせ、もし彼の機嫌を損ねればこの鹿のようになってしまうのだろうかと思うと気持ちは滅入っていく。それでも無乃はこの男に青い顔を見せるのは癪だった。
その無乃の不敵な笑みに、張浮はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「俺がわざわざ大きな声で言ってやらなくたって、極悪人の性は変わらない。おい、誰かこの主座のために旗でもつくってやれ。病人を見捨てる薄情な人間だってな!」
無乃は笑みを浮かべたまま唇を結び、小さく息を吐いた。薄情な人間と貶されて背を向けることはできない。増えてしまった悪名を一つでも消そうとしているというのに、そんなに声高に宣言されては苦労も水の泡となってしまう。
背の後ろで手を組みながら、無乃はくたりと微笑んだ。
「……分かった協力するよ」
盗賊団など相手にしてしまったばっかりにこんな目に。彼らはどれほど無乃が人のために尽くしているのかまるで知らないのだ。
すると張浮は無乃がやる気になったと知って歪な笑みを口元に浮かべた。
「さすが、優れた男だな、無乃」
「軽口はいいよ。君を苦しめるものを教えてくれ」
「苦しめるもの? そんなの、いっそこのまま死んじまおうさえ思っている。だが生存の本能というやつがそれを許してはくれなかった」
「病というのは、君のその猟奇的な食欲の方か、それとも食べたいのに人生を終わらせたいと思うその破滅的な思考の方か、どちらなんだい」
「おいおい、無乃、食欲だって? 異常すぎるのはお前の頭の方か? お前を食い散らかしたっていい。先祖の前にその骨を捧げれば義兄も清々するだろうな」
「私には君が心の底から楽しんでいるようにしか見えないよ」
「楽しむ? 俺が何を楽しむ?」
「君のその、病だよ」
無乃は微笑んだ。黙り込んでしまった張浮は咄嗟に否定することができなかった。無乃の身体を突き放し、片足を引きずるようにして血まみれの寝台に戻っていく。
「食欲で悩めるならどれほど良かったか。別に、協力なんていって、お前の血がほしいわけじゃない。どうにかしてもらいたいのは、この、無性に血を浴びたいという衝動だ」
「血を浴びたい?」
魚の病に続いて、血を浴びなければすまないとは、また妙な病ではないか。今度こそ治療方法など知らない。無乃はすでにどうやって彼をそそのかしてこの場を脱しようかとそればかり考えていた。
「腹が減ったらものが食いたいと思うのと同じで、身体が乾いてたえず血を求め続けている。浴びていないと人まで殺してしまいそうだ」
無乃はふふと小さくあざ笑った。
羊群を殺しておいて、身勝手な男だ。しかしその場にいたのは眠り薬を使う女性と、老僧だという話しだった。実際張浮が殺したわけではないにしろ、彼の指示があったのは間違いない。
「……どうして羊群を殺した?」
寝台の下の血だまりを張浮は手ですくいとって、頬にべったりとつくほど指先のそれを舐めとっていく。少し気持ちが落ち着いたのか、ぐったりとそこに座りこんで張浮は頭を落としたまま無乃を睨みあげた。
「お前の居場所をどうしても吐いてくれなかったと聞いた。老僧ほど簡単に吐くやつもいないがな。お前は本当に、人に恵まれないな」
冷ややかな張浮の笑みに無乃は「そうでもないよ」と瞼を伏せる。
「君が首領の座をぶんどったように、私もいつか機会にめぐまれるだろうね。きっと、心の底から信用できる人ができるはずだよ」
無乃はふらりと張浮に近づいた。
「君、赤いのならなんでもいいということはないのかな。台所の火でも試しにあびてきたらどう」
「……殺す気か?」




