(三)
無乃は炊事場をふらっと歩いていた。
流れる汗さえ艶やかなものに見えるほどなのだから、婦人たちはこの美男子にボロボロの篭をもたせ、芋の皮や人参の葉っぱをこれでもかというほどまたこんもりと投げ入れては、どうにか疲れさせようと頻繁に呼びかけた。
「ほら、美男子さん、これもあげるよ」
無乃が「もう結構だよ」と美しい笑顔で断れば、忽ちかまどの炎が赤々と燃えさかって台所から火を噴いたというので、町ではしばらくどんなに醜い男でも「結構だよ」といいながら微笑をこぼせば、どれほど湿った草だろうが火がつくと信じられた。
炊事場には二、三人の下働きが忙しく立ち回っている。張家は兄弟も多くて大食いが一人いるはずなので、この人数でこなすなら手だけでなく足の二本を使ったって間に合わないだろう。暇そうにしている人などいるはずもない。
一人くらい怠け者がいると踏んでいた無乃は当てが外れて炊事場を離れた。どこかに都合のいい暇な人はいないだろうか。そんなふうにふらふらと建物の影に近づいていく。
偶然、雑巾を何度も水に浸して絞りなおしている退屈そうな娘を見つけた。
やっぱり、一人くらいはサボっているものだよねと無乃は嬉しくなって近づいていく。
「張菫という人の部屋に行きたいんだけど、連れて行ってくれるかな」
たわしも雑巾もまだ使うから駄目だと言われてしまって、その代わりにと、掴んでこすればたわしにもなると山のような野菜屑を持たされていた無乃は、もうほとんど煮込むだけの丸裸の野菜を見て他になんの泥を落とすつもりだろうかと不思議でならない。
その戸惑いと、いつもの微笑を浮かべておっとりと佇む無乃をちらっと見た娘は、まるで無乃が屑箱を抱えているように見えたので、ちょっとどうなのと、顔をしかめた。「勝手に行けば」と素っ気なく追い払おうとした瞬間、憂いを浮かべた無乃の瞳を少しだけ見てしまったばっかりに、すっかり恋の情熱へと転がり落ちて、野菜屑さえ自分に求婚しに来た男の結婚道具にさえ見えるのでその気になった。
「張菫さまの部屋?」
頷く無乃に娘が勢いよく立ち上がる。
「よかった。もうみんな、怖がって誰もやりたがらないから」
「怖がるほど凶暴な猫なんだね」
「その子猫の名前を知ってる?」
すると突然、娘がクスクスとおかしそうに笑って無乃を見つめた。まさか、目の前にいるのはあの悪名高い晩景門の悪主座だ。そうとも知らず、やんわりと首を振る無乃に娘は得意に言い放った。
「無乃って名前だよ」
がつんと、顔面に岩でも落ちたような衝撃を食らった無乃だ。
「無乃だって?」
なぜ、そんな名前を。しかも子猫に。
私だと思って大事に飼っているはずなどない。なぜそんな悪趣味な真似を。
「本当にどうかしてると思う。張浮さまは少し前から子猫を飼い始めて、無乃と名前をつけたんで、みんなびっくりよ。悪主座があんな子猫のように可愛いわけがないんだから」
無乃は少し立ち直れないくらいの衝撃を受けたものだから、にこにこと笑みを浮かべつつも頭の中では大混乱に陥っていた。
それに娘の容赦のない口ぶりが痛い。
確かに、と無乃は肩を落とす。娘のいうように悪主座はあれほど可愛くない。医者と言えば大概の婦人が喜ぶので適当に名乗っていただけで、実際、医者と分かれば婦人たちは悪逆無道の主座だろうが喜んだ。だから容姿について自信があったことなどただの一度もない。
それをまさかこんなところで再び自覚させられ、しかも子猫との落差に地味に傷を受けるとは。無乃は息をついた。
……それよりも、
張浮の子猫だ。彼が生きものを飼っていること自体がおかしいではないか。なぜ狂気的な病の犠牲者にならずにすんでいるのだろう。それに気になるのは、娘が無乃を押すようにして先を歩かせていることだった。
「君も、子猫が怖いのかな」
「そりゃ怖いわよ。部屋で見たものを、決して口に出してはいけないとも言われているし」
無乃はただの猫の餌やりだと思っていたが、どうやら張浮には何か別に考えていることがありそうだ。
無乃は困ったように微笑んだ。
「彼、どうやら錯乱しているようだね」
すると娘が大きく目を見開く。
「え? 聞かなかった? おかしなものに噛まれたのよ。みんなは猿だっていうけど、よくわからない、とにかく変なもの。それを診てもらっているんじゃないの?」
無乃も驚いて振り返る。
「噛まれた?」
「右足よ、見なかった? おぞましい状態だって聞くけど」
あの腐りかけた足だ。それなら、張浮の血を浴びたいという症状はその変なものに噛まれたせいだろうか。
「張常さまが亡くなって、それも立て続けに……」
と、娘の声が細く消え入っていく。無乃の背中から不安そうに廊下の先を覗きこんでいた。彼女の視線の先にあるのは、気の滅入るような部屋だった。
その部屋には朝顔の花が足の踏み場もないほどにちりばめられて、清らかな湖を眺望するように美しい部屋であった。なのだけれど、無乃は冷え込んでいくような寒気を覚えて仕方がない。
一体どうしたらこれほどの朝顔を集めることができるのだろう。それに、部屋の中央に置かれた、あれ――
なるべくそれを見ないようにして、無乃は子猫の餌だという一連綴りになっている紐をよく見ずにぱっと取り上げた。
部屋を出る直前、無乃は何か気を引かれる思いがして立ち止まる。
見たくもないと目を逸らしていた部屋の中央には、まっ白な棺が無造作に置かれている。蓋は閉じられているが、案内をしてくれた娘は一切部屋の中に入ってこようとしない。棺の周囲にはひどい臭いが漂っていて、しかもその棺から何かたえず聞こえているのだ。よく耳を澄ませると、引っ掻く音らしい。
もしかして、と無乃は嫌な予感がした。外で待っている娘を振り返ると、彼女は無乃の無言の問いかけに頷いてみせた。
「……中に、いるのか、まさか、子猫が」
重く息をつく。ただでさえ無乃なんて名前をつけられた子猫で、それが棺の中にいるなんて縁起でもない。やはり張浮はただ飼っているだけではない。恨まれているとは思っていたが、これほど自分への憎悪が膨らんでいるとは思わなかった。
無乃は棺の蓋をずらした。中を覗き込むと、やはり、一匹の子猫が閉じ込められていた。
黒目の大きなかわいらしい子猫で、一瞬射し込んだ光りに驚いて下がっていく。けれど無乃を見ると温もりを欲しがってうろうろと足踏みをした。
「――みゃっ」
と、甘えるように鳴き声をあげて身体を伸ばす。無乃は自然と腕を伸ばし、その小さな温もりを抱き込んだ。
「そこから、でてみるかい」
君は私が食らった刑よりも重そうだね。
無乃はふわふわの綿毛のような子猫を両腕に包み込んだ。しがみ付いた爪がそのときに引っかかったようで、チリッとした痛みに驚いて手を振った。
指輪かなにかあれば良かったのだろうがそこには羅冴流からもらった指輪はない。親指の付け根に赤い筋のような傷がついていた。血は出ていないが、無乃はおやおやと猫の優しい肉球を撫でてやる。
「君の手は人を傷つけるのではなく、癒やしを与えるものだからね」
よくよく言い聞かせ、野菜屑の入った篭の中にちょこんとすわらせた。
「……いいの? その猫、ちょっと怖いよ」
娘が無乃を盾にしている。腰を引いて怯えきった娘は大げさなところがあるようだ。無乃は微笑みながら手のひらにすり寄る猫を優しく撫でた。
「怖くなんてないよ、見てご覧、とてもかわいいから」
「だってその猫の食べてるもの、見たでしょ?」
「……見てはいないよ」
嫌な流れだ。
無乃は片手にぶら下げていた餌の正体にゾッと首の辺りに粟を立てた。紐に繋がれた鼠だと思い込もうとしていたのだ。けれどやはり、軽すぎる。見てはいけないと目をそらして、無乃は餌だというそれをぽいっと捨てた。
「人の指よ」
はからず、無乃のおぞましさを掻き立てるように娘が言ったのだった。




