(六)
無乃は困ったようにやわらかく唇に触れ、やんわりと首をかしげて一段と声を落とした。
「君の言うとおり、老僧が魚にしたんだ。私たちの話を盗み聞きしているのも、おそらく老僧だ。勿論、魚ではなく、ちゃんと人の姿でね」
無乃の囁き声を聞き漏らさないよう、羅冴流は自然と身体を屈めていた。すっかり全て解き明かしたような顔の無乃に「それなら」と微笑んで先を促す。
「無乃、あの若い僧侶はなぜ髭が長いってだけで老僧だと思ったんだろうな」
「それは彼が、老僧に協力しているからだよ」
協力?
想定していた回答ではなかったことに羅冴流は思いがけず呆気にとられる。しかしすぐさま「確かにあのとき……」と思い直していた。
あの若い僧侶は最初から人間が魚になるなんて噂を本気にしていなかった様子だ。もし病だと信じているのなら、無乃に泣き付いたあの女性のように彼も泣き付いて医者を探したはず。それなのに無乃が訪れるまで医者を探した様子はなかった。
少なくとも老僧が病でないと知っているのだ。そして老僧がどこにいるのかも彼は知っている。
草庵へ続く道に無乃が入っていったとき、鬱陶しいほどの視線を投げかけていたのは、老僧が見つかってしまわないか不安だったからに他ならない。
根っこや枝に躓いていた無乃だったが、本当は草影に隠れていた老僧を探していたのだ。
羅冴流はやはり油断ならないなと妙に得意げになっていた。
すると無乃はむず痒い顔をした。
「さて、町の人たちを隠すとしたら、どこに隠すべきか……」
僧侶が人を殺すはずもない。
殺した方が面倒事は増えるのだし、人に見られる危険も増える。それを無乃も分かっている。羅冴流は今度は無乃がなんて言い出すのか興味があった。ゆっくりと推測を立てる無乃に、心地良く目を閉じる。
「殺したいわけではない。でも感情的になってしまった結果、どうすればいいのか分からなくなったんだ。……うーん、これはどうやら」
ぶつぶつ呟いて散々悩み抜いた末に無乃は諦めたように息を吐きだした。
「ひとまず、寺院には村人を閉じ込めておく場所もないようだし、明日、町へ行って消えてしまった人たちを探しに行こうか」
秘密のおしゃべりは、これで終わってしまうらしい。
無乃がまた一段と美しい笑みを浮かべた。
名残惜しさに目を開けた羅冴流は頷いた。わざとらしく説明的な無乃に微笑する。
「それがいい。ここに、被害者がいないというのなら」
にこにこと羅冴流と無乃は微笑みあった。
扉にへばりついていた気配はすでに帰っていったようだ。
無乃は耳をすませて、足音が踵を返して行くのを最後まで聞き届けていた。
ようやく羅冴流と二人きりだ――
暗やみに潜んでいた事件の首謀者がいなくなった、今だ。
無乃は強く唇を結んだ。
――人払いはすんだ
凝り固まった身体を解しながら、離れていこうとする羅冴流を咄嗟に、ぐっと胸ぐらを引き掴む。
その荒々しさに羅冴流の体が一瞬ぐらつくが、無乃に揺さぶられるとすぐにどっしりと構え直した。
「ところで、羅冴流、私に嘘をついているね」
棘のある無乃の口調と、手荒な引き寄せ方とその剣幕に、さっきからどことなく険のある様子だったのはこれを聞きたいためだったのかと、羅冴流は微笑した。
人を掴んで脅しつけるなんて不慣れなはずで、羅冴流が与えた指輪が月明かりを弾いてかすかに震えていた。それに多少胸を痛めながら、羅冴流はむしろどうぞとばかりに身体を近づける。
「……無乃、どうして君に、嘘をつかなければならない?」
無乃が苦い顔で視線を落とす。
「白々しいよ。君、昨日の夜どこにいた?」
ちょっとだけはぐらかそうかとも考えた。けれど羅冴流はこれ以上疑われるのは得策ではないと素直に答える。
「人と会っていた」
「あの朝、魚になったのは二人だとしか知らなかった君が、老僧を含めて四人だと言ったね」
「君だってあのときすぐに訂正しなかった。どうして言いたくなかったのかは察しがつくが」
無乃は感情的になった自分を咎めるようにゆっくりと羅冴流の襟から手を離す。すぐさま身体を抱きしめて、悩ましげに背を向けた。重く沈んでいくような頭をもたげて苦しげに言う。
「もう一人、あの朝に……」
無乃は言い切れずに言葉を詰まらせた。騾馬を抱えてどこかへ去った彼が、まさかこんな形で再会してしまうなんて思わなかった。
あの朝、父親が真っ青な顔をして息子を食べたという話しとは別に、魚になれずに命を落とした人物がいた。それが羊群なのだった。
彼は確かに財布を盗んでいったが、憎いわけでは決してなかった。またどこかで会えたら良いと思っていたのに……
無乃は羅冴流が目を覚まさないうちにこっそりと朝の散歩に出かけた。
波打ち際で横たわっていた羊群の遺体を、人集りの後ろから疲れ切った気持ちで見ていたのだ。
そのことを、どうして羅冴流が知っているのか不思議でならない。無乃は震える指先で目元を撫でるとやわらかく微笑んだ。
「……羊群は、この件とは関係がない。だからあえて言わなかった。それなのに君は彼の死も今回の事件と繋がりがあると思っている。何か、知っているんだろう」
「知っているのは、彼が昨晩殺されたということだけ。そこには老僧と、もう一人、女がいた」
「……女?」
弱々しく問い返す無乃の姿が闇の中にぼんやりと心細く浮かんでいる。その背中は悲しげで目を合わせようともしない。羅冴流を見ることさえ嫌だと言いたげなのだ。もう二度と、こちらに顔を向けることなどないかのように。
――せっかく得た信用を、失った。
羅冴流は苦く息を吐く。
「君を抱えて巨船を下りた日、護衛船に乗っていた荷華幇の人間が一人残らず無様に眠りこけていた。もやのかかった夜だと思ったが、どうやら眠り薬を使われたようだ」
少しの間悩んでいた無乃が困惑した声でたずねた。
「その女性の話と、今回の事件、どんな関係が」
「入眠の最中に見た現実は、夢か真実かあやふやになる。女は眠り薬を使って、町の人に人間が魚になったと思い込ませたんだろう。僧侶と手を組んで何をしているのかはわからないが」
無乃の親指に目をむける。簡単に外れそうなほど緩んでいる指輪を羅冴流はそっと深く嵌め直す。銀のその冷たさに無乃が弾かれたように手を引いて、無意識だろうか。大事そうに指輪を撫でた。その直後、ハッとした顔で羅冴流を振り返った。
いつから輝いていたのか、澄んだ瞳をぱちくりと瞬いて、無乃は羅冴流の胸の痛みなどそっちのけで穏やかに微笑んだ。
「簡単なことだ、羅冴流。わからないというのなら、老僧を引っ張りだそう。直接問いただした方が早い。誘拐した町の人をどうするつもりなのか、その女性がどうして羊群だけ殺したのか」
無乃は颯爽と部屋の外へ向かう。
扉を開け放ち、覚束ない足取りで階段を下りていく姿に、羅冴流は自然と手をとってやりながら、一瞬、心臓が凍えるほどの痛みを覚えた理由を必死に押し殺していた。
無乃が晩景門の主座なのか、その正体を暴くために信用を積み重ねていただけ。たったそれだけのことで、他に理由などないのだと。




