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無道無乃  作者: 海原津子
月の戯れ
26/41

(七)

 精巧な作りの須弥壇に美しく彫りあしらわれた法の主は、披(ひら)いた蓮花の花に今まさに降り立ったようにたおやかに衣を靡かせていた。


 無乃(ウーナイ)は天の荘厳な香りに包まれた八体の守護神に囲まれながらも、美しさに全くひけをとっていない。清らかな月のような美貌に穏やかな笑みをうかべ、ずらりと居並ぶ像を前に、ひょっとすると無乃が衆生済度のために使わされたかのようでもあり、慈愛の溢れる眼差しを一体ずつに投げかけていた。


「どうやって老僧を引っ張りだす?」

 羅冴流(ルオフーリウ)の言葉に無乃がわかりきったことだと言いたげに軽く顔を向ける。

「勝手にすっ飛んでくるはずだ。私に任せてくれればいい。それに人間は神秘に触れたとき、本心を隠してはおけないものだよ」


 羅冴流は頼もしいねと眉を上げた。

「それじゃあ、分かったんだ? 町の人を隠している場所が」

 無乃はまるで罰が当たることも恐れていないようだった。にこりとすると、ためらいなく蓮台の上に立ち上がった。くるりと振り返り、羅冴流に白い指をさす。


「羅冴流、一体のうちのどれでもいい。腰のあたりを持ち上げてくれるかな」

 羅冴流の身丈より少し大きいくらいの塑像だ。羅冴流ならあっさりと持ち上がるはず。その無乃の予想通りに、羅冴流が塑像の腰の辺りに手をかけると、何度も開け閉めして緩みきった蓋を開けるように、あっさりと動いた。何百年もの間誰も動かしていないのなら少しくらい埃が舞っても良さそうなものだが、つい最近も誰かがあけたようだ。


 羅冴流が塑像の上半身を持ち上げて中を覗き込もうとしたとき、足音が一つ、こつんと床を蹴る音である。

 と、羅冴流の腕を皺だらけの細い手が、闇の中からぬっと現れて掴んでいた。

「……無乃さま、それには、及びません」


 老僧だ。

 枯れ木のような痩身。嗄れて呂律の回らない声。無乃は少しずつ闇の中に浮かび上がるこの老人の姿に驚愕した。

 前に一度、会っている。


 しかも彼とは別れて五年ほどしかたっていない。そのあいだに随分痩せ衰えたのだ。腕を組んだまま老僧を見おろす無乃は思わぬ出会いに驚いていた。

「……あなたでしたか」


 青ざめるような驚きをおっとりと笑みの下に隠して、無乃は袖の中で拳を握る。

 痛みが、ほくろのあたりを再びずきずきと刺激していた。それを感づかれるわけにはいかない。

 戦慄きをこらえる無乃は蓮台に美しく毅然と立ちすくみ、法の主の威光を背にめぐらせ、あっと息を呑む美しさのまま老僧を見つめている。


 老僧の身体はこの威厳に自然と恭しく額をついていた。無乃の姿を見てしまったときから、自分の中に巣くった邪なものを隠しておくことなど、できるはずもなかったのだ。

「お元気そうなご様子で、なによりでございます……」

 平伏する老僧に無乃はにこやかに微笑みかけた。


「訳を聞かせてくれるかな。羅冴流を止めた、理由を」

「勿論ですとも、全てお話しいたします」


 老僧が応じて目をあげる。すると彼の目の前には圧倒するほど目映く輝く無乃の美しい身体があるのだから、老僧は瞬間浄土の極楽をここにみて、慌てて肢体をなげうち、畏れおおくもひれ伏した。身体を震わせ、何十年と乾ききっていた樹皮のような頬や唇、そして心にさえ、少年のような赤みが戻っていく。若返りとはまさに、この無乃のような美青年を目の前に見て、彼のような美しさに恍惚を得ることだったのだと老僧は甚く感服した。


「……無乃さまのお考えのように、塑像の中に、町の人を隠しております。これほど残忍なことをしておいて、結局私は誰かに罪を暴いて欲しかったのでしょう。殺すつもりなど、ありませんでした。しかし、私のしたことを無乃さまに見せるのは、あまりにも恐ろしくてたまりません。私が、かように残酷な人間だと、無乃さまに知られてしまうのが恐ろしいのです。町の人は帰すと約束しましょう。けれど、無乃さま、あなたのご高名は伺っております。是非、ご協力いただきたく……」


 無乃は悩ましく首をかしげた。

「協力というのは、なにかな。君の病のことなら、申し訳ないけれど私にはどうすることもできないよ」

「私ではないのです、無乃さま」


 蓮台から羅冴流の手を借りつつおりていた無乃は、ふと羅冴流と顔を見合わせた。

 私ではない、ということは、他の人物の病についてだろうか。一緒にいたというあの女性。無乃は羅冴流の言葉を思い出しながらゆっくりと老僧の前に近づいていく。


「……どういうことかな」

 老僧が顔をあげる。じっと、黒い瞳がまるで穿つように無乃を見た。

「町の人からは血を頂いておりました。あの騾馬とともにいた男は、彼女が少しいじめすぎたからで。若ければ若い方が良いというはなしですから、血を抜きすぎたのです」


「随分突飛な話しをしているようだけれど……」

 血をもらうって? しかも老僧がさらっていたのは全て男ばかり。男の血にどんな価値があるというのか? それに、協力しろというのはまさか、かわりに血をくれというわけではないだろうな――

「……無乃、」


 困惑する無乃の耳に羅冴流の探るような声が触れた。

「……眠り薬だ」

「眠り薬?」


 無乃はかすんでいく視界に何度か瞬く。

 部屋の中は沈香の香りが広がっている。もやっぽさはその香りのせいだと思っていた。

 しかし瞬時に神経を尖らせた羅冴流が無乃の身体を強引に引き寄せた。

「息を殺せ」


 よろめく無乃の身体をとらえ、背後から力強く腕を回す。口元に分厚い手を宛がうと冷静な声で素早く囁いた。

「眠ったら、何をされるかわからない」


 月明かりに白んだ部屋の中で、羅冴流が無乃を引きずって後退る。壁にふれ、つたうように窓、戸、それらを力一杯押し開けようとするがびくりともしない。外から鍵をかけられたようだ。羅冴流は何度か殴りつけていたが、全て無駄だと悟ると容易く剣を振り上げた。


「……無乃、俺と寝るのは、嫌だろう」

「いや……?」

 そうだ、嫌なのだ。

 無乃はぼんやりと白んだ夜の景色を夢か現かもわからず見つめながら、嫌だよと呟いていた。

 君と一緒に寝るのは、絶対に……

 そうだろう、純情だという君の隣になんて……


 やわらかな月明かりが静まり返った泉下寺を照らす。

 強烈な眠気に、羅冴流は無乃を寝かせまいと何度も声をかけていた。その必死さも、木枠を剥ぎ取るように窓を壊す羅冴流の動きも、外から聞こえてくる寂しげな女性の歌声にのまれ、無乃はますます夢の中へおちていくのだった。


 目が覚めたとき、無乃は当然そこが果歩のあの女性の家だと思っていたのだし、眠りに落ちる寸前まで羅冴流の腕を感じていたのだから、横たわったまましばらく羅冴流の温もりを無意識にまさぐっていた……


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