(四)
柔らかな緑を押し開いて進む無乃は、精舎をぐるりと囲む雑木林の中をわざわざ掻き分けて、今は使われていない古い草庵をちらりとみる。たったそれだけだった。一目ふいっと見たら再び道を戻っていくのだ。
たったその一目のためだけにがさがさと歩いていくのだから、無乃の後をついていく羅冴流は意図がわからず困惑した。
しばらく誰も通っていないようなひどい道で、羅冴流は気を紛らわすために鳥の声を樹上に聞かなければならなかった。でなければさきほどから無言で考え込んでいる無乃と会話ができないこの退屈を、どうやってしのげというのか。
剣を盾代わりにして草を根こそぎ払って進みながら、無乃が草庵を前にしてあっさりと踵を返した理由を考える。
「……中を、見なくて良いのか?」
羅冴流が問いかけたのは、それからいくらも経っていない。答えを知るために聞いたのではなかった。会話のきっかけが欲しかったのだ。
無乃、何を考えている? と優しく促すと、蒸すような暑さのために顔を赤らめた無乃が振り返った。
「中を、見たいか?」
草葺きは長らく葺き替えていないせいで痩せていて、草の芽と苔が這う怪しげな草堂だった。中に誰かいるかも。そんな好奇心を抱いていた羅冴流は逆に問われてちょっと唸った。
無乃が興味を示さないのならさほど重要なことではない。病と無関係なものを必死に追ったところで真相は掴めないだろう。
無乃の嗅覚は信用していたから、羅冴流はさっと顔を横に振った。
「なら、君はなんのためにここに来たんだ?」
「あの草庵をみるためだよ。他に何がある?」
穏やかな顔をして躓いたり、枝に額をぶつけてよろめく無乃を、羅冴流は悟られないように助けてやりながら進む。暮雲のたなびく影に何者かのひそんでいる気配を感じていた。いつでも鯉口をきれるよう鞘を短く握り直した。
そのすぐ前を歩く無乃は剣を握った羅冴流に多少いぶかしんだりしたのだが、笑って誤魔化す羅冴流に「剣客とはそういうものだね」と気にしなかった。
無乃は全くのんきに鼻歌を歌いはじめた。
羅冴流も、気配の隠し方を知らない素人が相手というのもあって、大方無乃に個人的な感情をもつ僧侶だろうと見抜いていた。
なにせ、魚になったとはいえ無乃は老僧にミミズを与えたのだから。
「また君は人の恨みを買ったらしいね」
と羅冴流も大して気にとめていない。
草まみれになって茂みを抜けた無乃は葉っぱを一枚ずつ丁寧につまんで落とすと、羅冴流をちらりと振り返った。
「もう見るところはないようだし、堂舎に戻ろうか」
「寺院が病の元凶なら、今晩俺たちのどちらかが魚になるかもしれない」
嬉しそうな顔をする羅冴流に無乃は半ば困った。
無乃からみても、羅冴流は病のことを真に受けているわけではないのだと分かっている。
何度も信じないのか? と念を押すようにたずねておきながら、彼は一言だって病を信じるとは明言しないのだから。無乃がいつ発言を撤回するか、それを期待しているだけのようだ。
「魚になるわけがないよ。現に寺院で魚になったのは老僧だけなんだから」
そして無乃も頑なに病だと認めるつもりはなかった。
ふんわりとした笑みを口元に浮かべ、案外頑固なところがあるらしい。無乃に倣い、羅冴流もやわらかく尋ねた。
「老僧だけが特別のようだね」
「特別なことというのは以外と起こらないものだよ。老僧だけが魚になったのなら、必ずその理由がある」
「彼だけが持つ、病か?」
せっかくどんな病でも治す医者と言われる無道無乃といるのだから、一度くらいはその治療をお目にかかりたいもの……
と野心を漲らせていた羅冴流はふと目をぱちくりとさせた。
ああ、なるほど、そういうわけか――
挙って無乃に縋り、よく分からない人々が悪主座と知りつつも集まってくるのは、羅冴流と同じく、大方は治療の妙技を目にしたいからのようだ、とこのときばかりようやく腑に落ちた。
そうなると俺も鬱陶しい野次馬の一人というわけか……
なんて格好のつかない立場だろう。
羅冴流はひそかに落胆し、無乃の関心をもっと引く必要があるなと考えた。
つまり、まどろっこしい真似をやめだ。
「魚になる人間とならない人間がいるのなら、その違いはなんだ?」
無乃は廊下の欄干を指先でなぞって歩きながら、山影に入った黒い堂舎を見つめて答えを寄越す。
「それが不思議でね。病なら原因は特定できるけれど、これは病ではない。だからなぜ魚になったのかがわからない」
「あくまでもこれは、病ではないということか」
「そうだよ。寺院に泊まれて幸運だったけれどね」
「だが、無乃、人間が魚になっていないなら、老僧を含めて町では四人が行方不明ということになる」
無乃はふと足をとめた。
「君の考えたとおりなら、これは殺人が目当てではないんだ」
「それは、どういう意味で言っている?」
羅冴流は立ち止まった無乃を思わず追い越しかけた。欄干によりかかり、無乃のにこやかな顔を覗き込む。彼はほくろのあたりに触れて、少し気になるように緑深い寺院の庭を見つめた。
「放っておいても大丈夫だということだよ、羅冴流。それより、ただの魚を人間だと思わせる方法を、寝る前に私と考えようか」
そしてもたもたと堂舎へ不器用に歩いていく。
羅冴流は「おや?」と面くらい、思わずつんのめりかけた。
宵闇が迫る西の空に向かって、無乃はまるで語りかけるように言ったのだ。今まであれほどはっきりと彼が自分の考え事を口に出すことはなかったのだから、羅冴流はもしかして分かっていたのか? と無乃を追う。
「気づいていた? 君を見ている人がいる」
「探られるのを気にしているようだね。羅冴流、今夜は眠ってはいけないよ」
羅冴流は言葉の真意を分かってはいるが、思わずくっと笑って冗談を口にせずにはいられなかった。
「俺が全裸になるのが、そんなに嫌?」
瞼を伏せていた無乃がそっと瞳をあげた。その思いも寄らない眼差しに羅冴流は思わずどきりとする。
いつになく憂いたっぷりに息を吐き、羅冴流を見る優しい表情には、やはりどこかさみしさが滲んでいた。
「……あまり、見せびらかすものではない。君のその刺青……。いつか本物の蛇と間違われて刺し殺されてしまっても、私ではどうすることもできないのだから。隠しておかなければならないよ……」




