(三)
遠く過ぎ去った春の足跡を辿るようにして、無乃と羅冴流は奥深い寺院の境内に迷い込んでいた。
病弱さを思わせるほどまっ白な顔の僧の両側に立ち、瑞々しい木陰の下で桶の中を覗き込んでいる。
「こちらが、噂の魚です。無乃先生……」
小さな桶の中でぴちゃりと尾ひれを跳ねるこの鯉を、彼は真面目な顔をして老僧だといわなければならないのだから、若い僧はためらいがちに声を落とした。
「あの朝突然、法師と入れ替わりにこの魚があらわれまして……」
困惑顔の青年を放って無乃は尺を採るように空に指をあてがう。確かに髭の長さは釣り糸ほどもありそうだった。
魚と目を合うと、無乃は道の途中で拾ったミミズをぽいっと桶の中に投げ入れてやった。その後ろから「治りますか……?」とたずねる僧侶の声だ。無乃はやんわりと瞼を伏せた。
「治るとは?」
恐ろしく太い眉と濃い目鼻立ちの、ちょっとばかり遠慮したくなるような顔の作りをした若い僧である。
彼も内心どこかで馬鹿げているとは思いながらも、老僧と入れ替わりのように現れたこの魚を他に説明のしようがない。
「……病だと、町では皆さん恐ろしがっていますから」
それにくわえて今や病は泉下寺から広がっているのだと敬遠されつつあった。早いところ手を打ち、老僧を元に戻さなければ今度はどんな噂が立つか分かった物ではない。この若い僧侶が一番に知りたいのは診断ではなくその処置方法だろう。
魚を人間に戻すためには一体どのような食べ物を与えたら良いのか、薬は何を塗るのか。さっそく服用方法を書き留めようと雛憎に筆をとりに行かせていた。
それを待たずに無乃は優雅にすらりと立ち上がり、背中に両手を組んでふらりと歩き出す。
「ただの魚にしか、私には見えない。それに私は病を治すためにきたわけではないよ。解明するためにきたのだからね」
羅冴流に軽く目配せをする。視線を受けた彼は「もういいのか?」といいたげに微笑むと覗き込んでいた桶から視線を剥がした。
「人間が魚になると、意思疎通や知能はどうなってしまうのだろうね。今までの記憶や思い出は、魚になると全て忘れてしまうのかな」
この鯉はぱくぱくと水面に口をだし、無乃の指先からミミズが落ちるのをまちかまえていた。人間の意識のままであるならミミズなんてとても食べられない。それとも魚になったことで食の好みも変わってしまったのだろうか。
若い僧はそんな問いなどどうでもよさそうに無乃の前に駆け出て手に取りすがった。
「……無乃先生? 戻す方法は、勿論ありますよね?」
この藪医者が極悪人などと言う噂はすっかり彼の頭の中にはないようだった。
この際どんな病でも治すこの青年だけが頼りだと、そんな目色がふらふらと歩いて行く無乃を引き留めようと必死だった。それを無乃は微笑を浮かべて頭を振る。
「さあ、どうだろう。魚を人間にする方法なんて、私には思いつかないよ」
僧侶はぼんやりとした顔で膝をついたまま無乃を見上げていた。
すっかり肩を落とし、浮かない顔の彼を背にしたまま真っ直ぐ無乃は歩いて行く。
山に覆われた寺院である。それを一日かけて歩いて見て回るのは骨が折れそうだと無乃は暢気に考えながら、つい、と僧侶を呼んだ。
「君、しばらく寺の中をうろつくよ」
ぱっと顔を上げる彼の、やはり、少し目にするのもためらうような顔立ちが無乃の言葉に明るくなった。
「勿論です。是非とも今晩はこちらでお休みください。どこでも好きに、ご覧になって。治療のためなら何でも協力いたします!」
細い脇道へ入っていく無乃をいつまでも見守る彼は、無乃が「おや?」と木の枝を拾い、「あら?」と蛇の穴に躓く度に、何か収穫があったに違いないと期待の眼差しを向けた。
無乃はそれを薄々感じ取りながらやりにくいなと腕を組む。
僧侶のうろうろと忙しない視線を避けるようにさらに奥へ進んでいく。
ようやく彼の姿が見えなくなると好き勝手できると息を吐き、悩ましげに首をかしげた。
「……さて、羅冴流、何か気づいたことはあるかな」
「老僧は、食われていないんだな」
にっこりとした笑顔で羅冴流がいった。そして無乃にならって腕を組みながら、爽やかに続ける。
「恨みのある人間を食っても、殺人にはならなそうだ。けど、僧侶は恨まれてはいなかったらしい。食われていないから」
思いのほか真剣な眼差しの羅冴流だった。
無乃は微笑んだ。
「なら、殺人が目的ではないようだね。魚にすることで一番得をする人は、誰だろうか」
「飢えているやつか?」
噂に引っ張られすぎだよと無乃は肩透かしを食らう。
「ここは川に近い。わざわざ人を魚にして飢えを満たすようなことは、しないだろうね」
「なら、君は何を考えている?」
顎に手をそえて無乃は「そうだね」と緑豊かな境内を見回した。
「どうして魚になってしまったのか、それが気になるかな」




