(二)
香りひらく夏椿に夜明けのもやがなびきよせ、淑い風がさっと光って湖を渡っていく。
風の吹くまま髪を揺らす無乃は再び果歩の小さな港町に戻ってきてしまったことに落ち込んではいるのだが、しかしのんびりと心地良く目を細めていた。
「一歩進むたびに君に縋るやつが現れる……」
午をすぎてようやく目を覚ました全裸の羅冴流が、寝起きに乱れた髪を鬱陶しく掻きあげた。憂鬱な翳りを刻む顔に、とぐろを巻くように息を吐き出すのは、昨晩の疲労が残っているためだろうか。
泣き付かれた女性に引っ張られるまま、一昼夜と舟を漕ぎ、彼女の自宅がある果歩まで戻るはめになった。無乃も必死で腕を動かしてはいたが、おそらく羅冴流ほど律儀ではなかったらしい。
その分腕の痛みに気怠そうにしていた羅冴流が、無乃の眩しそうに細めた目がうっとりと風を浴びる様子を見ると、自然と目つきはやわらいでいた。
「君の悪名にも困ったものだな」
困ったものと、そう言いながらも羅冴流の声色は優しかった。
無乃は頷く代わりに微笑んだ。
「君も、そう思うかい? おかげで二年経っても翠花百雷にたどり着けない」
羅冴流は昼の間、首元までぴっしりと襟を詰め、蛇の尾さえ長衣の下に隠してしまっている。その身体に三匹もの蛇の刺青が絡まっていることを、無乃が彼の全裸を見るまで知らなかったように、誰もが綺麗な肌を想像しているに違いなかった。寝るときだけやたらと開放的になるのは、日中の堅苦しさの反動だろうか。
この体温の高い男の寝姿にはさすがの無乃もにっこりとした微笑に苦いものが浮かんだ。
今朝方、起こしに来た家の人がこれを発見して、急いで無乃を引っ張ってきて蛇に食われた死体と、その蛇を片付けてくれと言い出したときは、良い機会を得たと忍び笑いがもれた。
「疲れてぐっすり眠っているだけだよ」
と澄まして言えば、しげしげと無乃の顔と羅冴流の身体を交互にみて彼女はつぶやいた。
「随分、慣れてるんだねぇ……」
無乃はにこりとして「最初は驚いたけれどね」というと、再び彼女は訝しげに無乃の胸元や、赤く充血した唇に深い意味を見いだそうと執拗に見つめた。
「へえ? 最初は……ねえ?」
同衾か入浴か、供に過ごさなければ人の肌など普段は目にも入らないはず。それを、彼女は遠回しに目つきで訴えている。無乃といえば正直に話しているだけなのだから悪気もない。ただ、そばで危うげにこの会話を聞いていた羅冴流がとうとう耐えられなくなって、呻くように彼らの会話を終わらせた。
「……無乃、俺は純情だよ、誤解されて困るのは君の方だ」
そんなやり取りの後で、羅冴流はようやく起き上がり、寝姿をもう少しどうにかしないと無乃があれこれと怪しい憶測を招き寄せかねないとさすがに思ったようだ。衣服に袖を通しながら難しい顔をした。
「寺に? 俺も行く」
やはり食えない男――
そんな羅冴流の視線を感じつつ、無乃は瞼を伏せてゆっくりと顎を引く。
「とりあえず、話を聞きに行かなくてはね。勘違いだろうけれど」
無乃に泣きすがった家人の女性が夜通し舟を漕がせたのは、果歩で起こった奇妙な病のためだった。
果歩では最近、魚になった男がいるという。
事の発端は泉下寺である。
指の毛が一本だけやたらと長く伸びた老僧は生類を熱心に慈しむ僧として果歩では有名で、ある日、早朝に池の魚に餌を与えた後、すっかりその姿を泉下寺から消してしまった。
寺の若い僧がその数日後、老僧の指の毛のように一本だけ長い髭を持つ魚を見かけ、さらにそのそこから日が経ち、夕食を食べていた老女が今度は突然泣きわめく騒ぎがあった。
何事かと事情を聞くと、一本だけ金歯を詰めていた旦那と同じように、食べていた魚にも一本だけ歯があり、それはなんと金歯だったのだという。そのため旦那を食ったと泣きわめいた次第であった。
そこでついに消えた泉下寺の老僧も魚になったのだと伝聞が広まり、これは稀なる病に冒されたのだと声高に言う人さえあらわれた。
無乃に泣き付いたこの女性もいつか魚になった親や兄弟を食べてしまうのではないかと恐ろしがり、二人に小舟を漕がし続けたのであった。
「人間が魚に? そんなおかしなはなし、あるはずがない」
無乃は平然と言った。
女性の話などちっとも信じてはいない。なにせ人間が魚になるなんて病、無乃には聞いたこともなければ、見たことさえないのだから。恐ろしいからどうにか病の真相を調べて欲しいといわれたので、調べるだけなのだ。
「実際に魚になった人間が二人もいる」
無乃はかすかに微笑んだ。
「君は寝ていたから知らないだろうけれど、昨日、でたそうだよ、三人目が。息子には禿げがあるらしいが、食べた魚にも鱗のかけたところがあり、父親が食べてしまってから顔を真っ青にしたらしい」
左右の瞳の色を気取られないよう、得意な顔をして瞼を伏せる無乃を、羅冴流は少し不思議そうに見る。
「信じないのか?」
「実際に魚になった瞬間を見たのなら、信じるしかないだろうね」




