第28話
結婚式まで、あと五日。
皇宮の一室に、白いドレスが広げられていた。帝国の職人が三ヶ月かけて仕立てたもので、裾には銀糸で鷲と、それから小さく、王国の薔薇が刺されていた。
エレオノーラは、それを前にして立ち尽くしていた。
「どうしたの。気に入らない?」
ゾフィーが、後ろから覗き込む。
「いいえ。とても、美しいです。ただ」
「ただ?」
「……私のために選ばれたものを、どうすればいいのか、分からなくて」
十年間、彼女が着るものは、殿下の好みで選ばれた。淡い青。隣に立つ者にふさわしい、目立たない色。自分のためだけに仕立てられた服を、一度も着たことがなかった。
ゾフィーは、少しの間黙っていた。それから、エレオノーラの両肩に手を置いた。
「あなたは、主役なのよ」
「……」
「隣に立つ人じゃない。五日後、帝都中があなたを見る。あなたのために鐘が鳴る。だから、どうすればいいかなんて考えなくていいの。着て、真ん中に立てばいいのよ」
「お嬢様」
ミレーヌが、静かに言った。
「あの国で、お嬢様は一度も真ん中に立たれませんでした。今度は、立ってください。私が、ずっとそれを見たかったのです」
エレオノーラは、ドレスの裾の薔薇に、そっと触れた。
「……分かったわ」
フォルスター侯爵が帝都に着いたのは、その日の午後だった。
侯爵は娘を見るなり、何も言わずに抱きしめた。あの日、玄関で抱きしめたときと同じように。けれど今日の腕は、震えていなかった。
「お前は、あの国のために努力した」
娘の肩に額を当てて、侯爵は言った。
「そして、この国で報われた。それを見届けられた。父として、これ以上の誇りはない」
「お父様」
「泣くな。私まで泣けてくる」
そう言った侯爵の方が、先に泣いていた。
王国からの使節は、翌日に到着した。
王妃アデライードと、セドリック。二人だけの、小さな使節団だった。
「兄上は、来なかった」
セドリックは、挨拶が終わるとすぐにそう言った。
「ええ。それでいいと思います」
「僕もそう思う。でも、兄上から、これを預かってきた」
少年は、上着の内側から、小さな包みを取り出した。
薄い紙を開くと、中から一枚の栞が出てきた。
古い、色褪せた押し花の栞。薔薇の花弁を一枚、丁寧に紙に閉じたもの。
エレオノーラは、それを見た瞬間、息を止めた。
八歳の春だった。庭園で約束をした翌日、彼女は垣根の薔薇を一枚摘んで、本の間に挟んで押し、栞にして少年に贈った。「大人になるまで、なくさないで」と言って。
それから十年間、彼女はそれを見ていない。彼が持っているのかどうかも、知らなかった。
「兄上は、こう言った」
セドリックは、姉の顔を見ながら、ゆっくりと言った。
「これは、姉上のものだから、と」
エレオノーラは、栞を両手で受け取った。
それは、謝罪ではなかった。手紙で、もう謝罪は終わっていた。これは、返却だった。約束の証を、約束をした本人が、自分から手放した。彼はもう、それを持つ資格がないことを、自分で認めたのだ。
(負けを、認めたのね)
そう思って、彼女は少しだけ、胸が痛んだ。勝った喜びではなかった。ただ、十歳の少年が、二十一歳になって、ようやく大人の顔をしたことへの、静かな痛みだった。
「ありがとうございます、セドリック様。受け取ります」
彼女は栞を、ドレスの箱の隅に、そっと置いた。
結婚式の前夜。
皇宮の回廊で、ラインハルトが待っていた。いつもの黒い上着。いつもの、無駄のない立ち姿。
「明日だな」
「はい」
彼は少しの間、彼女の顔を見ていた。それから、言葉を選ぶように言った。
「怖いか」
エレオノーラは、考えた。
十年隣に立って、二番目と言われた。それが怖くないと言えば、嘘になる。けれど。
「いいえ」
彼女は、微笑んだ。
「初めて、明日が楽しみです」
ラインハルトは、微かに口元を緩めた。
「そうか。ならば、いい」
彼は、それだけ言って、彼女の手を一度だけ握り、回廊の向こうへ去っていった。




