第29話
帝都の鐘が、一斉に鳴った。
大聖堂の扉が開き、白いドレスの花嫁が石畳の上に立つ。裾の銀の鷲と、小さな薔薇。帝都の民衆が、大通りの両側を埋めていた。
歓声が、波のように押し寄せた。
エレオノーラは、父の腕を取って、赤い絨毯の上を歩いた。左右の席には、帝国の貴族たち。あの御前会議で口を閉じた老公爵も、上座で無言のまま頭を垂れていた。
祭壇の前に、黒い礼装のラインハルトが立っている。
彼は、花嫁を見ていた。灰色の瞳の奥に、隠しようのない熱があった。氷の皇太子が生涯で一度だけ見せた顔だと、後にゾフィーは語った。
侯爵が、娘の手を皇太子に渡した。
誓いの言葉は、短かった。帝国の婚礼は、無駄を嫌う。
「エレオノーラ・フォルスター。貴女を、妻とする」
「ラインハルト・フォン・グランツ。貴方を、夫とします」
それだけだった。それだけで、十分だった。
鐘が、もう一度鳴った。
挙式のあと、皇宮の大広間で、花嫁は挨拶に立った。
帝国の慣例では、妃が言葉を述べることはない。けれどラインハルトが「述べたければ述べろ」と言い、彼女は述べることを選んだ。
広間には、貴族たちの他に、帝立学院の留学生たちと、帝国の若い令嬢たちが招かれていた。
エレオノーラは、彼らを見て、話し始めた。
「私は一度、努力が報われない場所にいました」
広間が、静まった。
「十年、働きました。帳簿を読み、書類を整え、名前を消して案を出しました。それは誰かのためでした。そして、その誰かは、私が何をしているかを知りませんでした」
声は、静かだった。震えてはいなかった。
「あの日々を、私は無駄だったとは思いません。帳簿を読む力も、条約を書く力も、あの日々が私にくれたものです。ただ、それは実を結びませんでした。誰も見ていなかったからです」
彼女は、隣に立つ人を見た。
「帝国に来て、初めて言われました。これは君が書いたのか、と。示された、と。私の努力は、無駄ではありませんでした。正しく見てくれる人のもとで、初めて実を結んだのです」
留学生の席で、誰かが手で口を覆っていた。若い令嬢たちの何人かが、目を伏せて涙を隠していた。
「だから、皆様に申し上げます。もし今、報われない場所にいるのなら。それは、皆様の努力が足りないのではありません。見てくれる人が、そこにいないだけです」
エレオノーラは、少しだけ微笑んだ。
「見てくれる人のいる場所へ、行ってください。私は、行きました。そして今、ここに立っています」
拍手は、すぐには起こらなかった。数秒の沈黙のあと、一人が手を叩き、それが広間全体に広がった。
王国側の席で、王妃アデライードが、扇で顔を覆っていた。その隣で、セドリックは隠さずに泣いていた。
同じ日、同じ刻。
アルディア王都の宰相府は、いつもどおりだった。
一番端の机で、ユリウスは決裁書類を読んでいた。要点を一枚にまとめ、結論を添える。以前より、少しだけ速くなった。
窓の外を、一度だけ見た。
東の空。帝都の方角。今日、あの街で鐘が鳴っていることを、彼は知っていた。
(おめでとう)
心の中で、それだけ言った。声には出さなかった。出す資格は、まだないと思っていた。
そして、彼は書類に目を戻し、一枚目を読み始めた。
ギルバートが、隣の机から、何も言わずに茶を置いた。南方の紅茶だった。
夜。披露宴の喧騒から少し離れた露台で、二人は並んで帝都の灯りを見ていた。
「疲れたか」
「少し。でも、幸せです」
ラインハルトは、頷いた。それから、珍しく、声を立てて笑った。
「明日から、君は皇太子妃であり、外交補佐官長だ。忙しくなるぞ」
「補佐官長、ですか」
「今日、皇帝が任命した。私は君の才能を奪わないと言った。だから、増やす」
エレオノーラは、目を丸くして、それから笑った。
「……承知いたしました」
その言葉を、今夜、彼女は初めて、心から嬉しくて言った。




