第27話
宰相府の朝は、早い。
夜明けの鐘が鳴る前に、ユリウスは一番端の机に座っていた。窓から遠く、灯りから遠い、新任の官吏に与えられる席だった。
机の上には、決裁書類の束。その隅に、一枚の古い予定表。
彼の仕事は、それを読み、要点を一枚にまとめ、判断すべき点と推奨する結論を添えて、上席の文官に回すことだった。
かつて、彼女がしていたことだった。
最初の一ヶ月、彼は毎日怒られた。要点が長すぎる。結論が曖昧だ。この数字の根拠はどこだ。上席の文官は、位を留保された王太子に一切の遠慮をしなかった。
「これでは、上に回せません」
三度突き返された書類を前に、ユリウスは初めて知った。三十枚の申請書を判断できる一枚にするには、三十枚を全部理解していなければならない。
彼女は、それを毎日していた。三十二枚に及ぶ案件で。誰にも言わずに。
貴族夫人たちのサロンには、宰相府の使いとして出向いた。
施療院の予算の件で、東部の子爵夫人に寄付を頼む。それが仕事だった。夫人は丁寧に茶を出し、丁寧に世間話をし、丁寧に、何も約束しなかった。
三度目の訪問で、夫人は言った。
「フォルスター嬢は、いつも帳簿を持っていらっしゃいましたわ。数字を見せて、この薬代が足りないと。だから私たちは、出したのです」
四度目、ユリウスは帳簿を持って行った。夫人は、少しだけ笑って、寄付を約束した。
帝国語の文書は、もっと厄介だった。
一語の訳し違いで意味が変わる。彼は辞書を引きながら、一通に三日かけた。かつて彼の机には、翻訳と要約の添えられた書簡が朝には置かれていた。それが誰の手で作られたものか、考えたこともなかった。
「殿下」
ギルバートは、今も彼を殿下と呼ぶ。宰相府の中で、それを許されているのは彼だけだった。
「この訳は、第三条が違います。優先ではなく、優遇です」
「……直す」
「はい」
側近は、それ以上何も言わない。以前のように、代わりに直すこともしない。彼は変わらず側にいたが、もう甘やかさなかった。ユリウスは、それをありがたいと思うようになっていた。
婚約の報せが宰相府に届いたのは、秋の終わりだった。
帝国皇太子ラインハルトと、エレオノーラ・フォルスターの婚約。文官たちが噂していた。
ユリウスは、その日の仕事を、いつもどおり終えた。
そして、その夜、一睡もできなかった。
寝台の上で、天井を見ていた。考えることは、もうあの回廊で終わっていた。彼女は言った。殿下が愛したのは、何も求めない私だと。そのとおりだった。
彼女はもう、何も求めない人ではないのだろう。求めるべきものを求め、それに応える人の隣に立つ。
それを、自分は喜ぶべきだった。喜ぶ資格はなくても、喜ぶべきだった。
(喜んでいる)
彼は、そう思おうとした。そして、それが半分は本当で、半分は嘘であることを、認めた。
夜明けの鐘が鳴った。
ユリウスは起き上がり、顔を洗い、いつもの上着を着て、宰相府へ向かった。一番端の机に座り、決裁書類の束を引き寄せた。
北部の街道補修。施療院の薬代。港の税。
(あの人が、守ろうとしたもの)
王太子ではなく、この国で暮らす人々。彼女はそう言った。帝国の分析書に、そう書いた。
自分にできる唯一の償いは、彼女に謝ることでも、彼女を想うことでもない。彼女が守ろうとしたもののために、この机で働くことだ。それだけだ。
彼は、一枚目を読み始めた。
昼過ぎ、宰相府の廊下で、セドリックに呼び止められた。
弟は、共同の後継候補として、今は王太子の公務の半分を担っている。
「兄上。少し、訊きたいことがある」
「何だ」
「姉上の結婚式に、王国の使節として誰を送るべきだと思う?」
ユリウスは、書類を抱えたまま、少し考えた。
答えは、最初から決まっていた。
「僕ではない、誰かを」
セドリックは、しばらく兄を見ていた。それから、小さく頷いた。
「分かった」
弟が去ったあと、ユリウスは廊下の窓から、東の空を一度だけ見た。
そして、書類を抱え直し、一番端の机へ戻った。




