壁の継ぎ目を読む
「壊した分は、私が払う」
物置から出てきた槌を肩に担いで、アレクシスが言った。秋の朝の母の部屋に、槌を持ったアレクシスと、それを見上げる父と、腕を組んだリディアが並んでいる。
鍵は、今朝、父が自分で開けた。
夜明け前、毎晩灯を入れに来るあの女の部屋の戸を、父が叩いたのだという。「鍵を」とだけ言って受け取り、ほかの誰も起こさずに二階へ上がっていった。門でそれを耳打ちしてくれた女は、「旦那様、寝間着に外套をひっかけただけでねえ」と目を丸くしていた。
開ける、と父が自分で書いて寄こし、院に脅されて鍵穴を背中で塞いだ戸だ。父はそれを、娘が坂を上ってくる前に開けておいた。
開けて、部屋の真ん中に立ったきり、まだ一言も口をきいていない。
窓は三つ。長椅子はもうない。突き当たりの壁が、朝の光を平たく照り返していた。この向こうに、窓がもう一つある。
「左官が二人で四日。煉瓦は九十。乾くまで十日。――だから、払うのは私だ」
前置きを一息で並べて、肝心なことは最後にひとことだけ。
リディアは横目で彼を見た。彼は肩の槌の頭ばかり見ていて、こちらへ目を向けない。
「九十も要りますか。穴を開けるだけですのに」
「割れる分の予備だ。あなたが蹴って割っても、まだ足りる」
「蹴りません」
父が、咳払いをした。
「公爵殿。他家の財布で当家の壁を直させたとあっては、エルンストの名が笑われる」
「では、私の給金からお払いいたします」
父の目が、ようやくこちらへ下りてきた。
「お前が? して、お前は今、幾ら持っておる」
「北では、塗り直しの漆喰に馬の毛を混ぜるそうでございますね。アレクシス様」
「混ぜる。割れにくい」
「馬の毛の話はしておらん」
逸らしたのは、自分がいちばんよく知っている。北の帳面にある自分の額を、この部屋で口にしたら、父はきっと黙る。その黙り方を、今朝は見たくなかった。
「決まらないなら、先に打つ。払いは、あとで三人で揉めればいい」
アレクシスが、槌を肩から下ろした。
「公爵殿、待たれよ。客に槌を振らせるなど、当家の恥だ」
待たなかった。
「雪壁と同じだ。正面からではなく、斜めに入れて――」
北の砦の話を最後まで言う前に、振りかぶっていた。
がん、と、部屋じゅうの空気が鳴った。
槌は面にめり込まず、硬いものに弾かれて跳ね上がった。漆喰の下に、太い柱が一本、縦に通っていたのだ。
天井近くの漆喰が、ばさりと剥がれた。
粉が降ってくる。窓から差しこむ朝の光の筋の中で、粉はゆっくりと舞い、いつまでも落ちきらない。三人の頭にも、肩にも、父の口ひげにも、等しく積もった。
父の鼻が、ひくりと動いた。
「は……っ、くしょい!」
盛大だった。伯爵家の当主が、客の前で、腹の底から。
鼻の下を押さえた父の口ひげから、粉がもう一度、ぱっと舞った。
リディアは、こらえようとした。
こらえようとして口を押さえた手のひらの内側で、変な音が鳴った。肩が震えた。だめだと思ったときには、もう声になっていた。
笑い声が、天井の剥がれた跡に当たって、部屋じゅうに跳ね返った。止まらない。苦しい。腕を組んでいたはずが、今は自分の膝につかまっている。
父は、くしゃみの続きを忘れたような顔で、娘を見ていた。
口ひげの下で、口が少し開いている。持ち上げかけた右手が、宙で止まっていた。ちょうど、子どもの頭を撫でるくらいの高さで。
その手は、撫でずに下りた。父は目を逸らし、袖で鼻を拭った。目尻だけが、拭い残したように赤かった。
「……間柱だ」
アレクシスが、跳ねた柄を握り直して言った。肩の黒い外套が、半分白くなっている。
「今の一振りは、数に入れない」
「入れます。父のくしゃみも込みで、帳面にしっかりと」
笑いの残りで声が裏返った。彼は真顔のまま、柱を避けて、一歩左へずれた。
「お待ちください。そこではありません」
リディアは膝から手を離し、壁の前へ出た。右手の指を揃えて、剥がれ跡の下へ当てる。
漆喰は、どこも秋の朝の冷たさだった。柱の上だけが、床と同じ重い冷えを返してくる。そのまま横へ滑らせていくと、掌一つぶん右で、手触りが変わった。古い漆喰と、あとから塗った漆喰の継ぎ目。髪の毛ほどの段が、縦に一本走っている。
その向こうの壁は、冷たいのに軽かった。空の鍋に蓋をして、上から触ったときの軽さだ。
床下を走る線を、この指で何年も読んできたのだ。壁一枚くらい、読めなくてどうする。
「ここです」
継ぎ目の右、腰の高さを、指で二度叩いた。
「理由は」
「左官さんの仕事は、ここから先だけです。奥は空いています」
アレクシスは彼女の手と壁を一度ずつ見て、それ以上は訊かなかった。彼女が退がるのを待ち、叩いた跡へ、二振り目を何も言わずに打った。
鈍い音がして、拳ほどの穴が開いた。
穴の向こうから、空気が来た。
ひやりとして、少しも動かない空気。ずっと閉じ込められて、外の季節を知らずにいた空気だ。
その中に、匂いがあった。
鉄と、木の実を煮つめたような、少し苦い匂い。
笑いが、喉の途中で消えた。
母のインクの匂いだった。書き物をしたあとの母の指から、いつもかすかにした匂い。鼻より先に、胸の方が覚えていた。
アレクシスが槌を床に置き、穴の縁に両手を掛けた。手袋をしない荒れた手が、煉瓦を順に外していく。外した煉瓦は床に並べ、数は口にしなかった。
人ひとり通れるほどになったところで、彼は脇へ退いた。
中は暗かった。
四つ目の窓は、内側から板で塞がれていた。板の継ぎ目から、朝の光が糸のように細く何本か漏れて、床の埃に白い筋を引いている。外から見たとき、あそこにだけ夜が詰まっていたのは、これだったのだ。
その細い光の向こうに、角張った影が一つ、うずくまっている。
リディアは身を屈めて覗き込んだ。肩が両側の煉瓦に触れる。狭い。
燭台を、と言いかけたとき、背後で布の擦れる音がした。アレクシスが、三つの窓掛けを端から全部引き開けたのだ。光が、穴から闇の中へ一歩ぶん伸びた。
机があった。
母の書き物机だった。天板の縁に一つだけ残った紺のインクの染みまで、あのころのまま。母が書き物の途中で、ちょっと席を立った。そういう置かれ方で、壁の中に塗り込められていた。
天板の真ん中に、油紙の包みが一つ、置かれている。
リディアが手を伸ばすより先に、背中の方で、床板が鳴った。
父だった。
父は娘の横をすり抜け、身体を斜めにして穴をくぐった。粉だらけの背中が闇の中へ入り、板の隙間の細い光の中で、しばらく止まる。
それから、包みを両手で持ち上げた。
戻ってきた父は、何も言わなかった。言いかけることさえ、しなかった。ただ、包みを娘の前に差し出した。
油紙の端が、かすかに震えていた。震えているのが紙なのか、父の指なのか、リディアには分からなかった。
何か言わなければ、と思った。お父様、とか。ありがとうございます、とか。どうして、とか。
どれも、口の手前で溶けた。
リディアは黙って、両手で受け取った。思っていたより、軽かった。
父の手が離れる。父はそのまま窓の方へ行き、背を向けた。朝の光の中で、その肩にはまだ粉が白く載っていた。
横から、指が一本伸びてきた。
アレクシスの荒れた指が、リディアの髪から、漆喰のかけらを一つだけつまんで払った。それ以上は触れずに、彼の手は外套の脇へ戻った。
「冷えるなら、ここで開けなくていい。下の食堂には火がある」
「いいえ。ここで開けます。母の部屋ですから」
油紙の折り目は固かった。指先で一つずつほどきながら、北の雪の中で、石に刻まれた母の名を指でなぞったときの、ざらりとした手触りを思い出した。
最後の折り目が開いた。
油紙の中に、封筒が三つ重なっていた。どの宛名も、最後の一字だけが大きかった。




