母の辞任届
茶器の割れる音が、階段の下から聞こえた。
母の部屋に一人で残っていたリディアは、膝の上の封筒から顔を上げた。少し遅れて、「構わん」と低く言うのが聞こえた。落としたのは、父の手らしい。
家具も客もない部屋に、壁の穴だけが黒く開いている。腰を下ろした床にはまだ漆喰の粉が残っていて、スカートに灰色の跡が丸く写っている。
ほんの少し前、アレクシスは粉だらけの父の肘に手を添えて、戸口で一度だけ振り向いた。
「下にいる」
呼べば届く所にいる、ということだ。リディアが頷くと、足音が二つ、ゆっくりと階段を下りていった。
破片を拾う気配がやんでから、一通目の封を切った。
中身は、乾いた枯れ葉のようだった。つまむと、折り目から崩れそうになる。窓辺へにじり寄り、秋の光の中でそっと広げた。
辞任届の写し、と頭に書いてあった。
日付は、二十年前の春。
『決めた期間を終えて退く。娘を代わりに出さない』
それだけの文だった。急いで書いたのだろう、字が右へ右へと傾いている。そのくせ最後の「い」だけが、ほかの字の倍ほどもあった。ペン先が紙を押して、裏まで跡が抜けている。
二十年前の春。私は四つだ。
四つの娘を、出さない。
その娘は十八になって、自分の足で院へ行き、自分の手で名を書いた。母はまだ生きていた。どんな顔で、それを聞いたのだろう。
その一枚を、伏せた。
裏返った端を、窓の光が白く透かしている。息を一つ吐いて、また起こした。
写しの隅に、母の字で一語だけ。
『差し戻し』
原本は院長に出され、受け取ってもらえなかったのだ。
余白には、さらに細かい字が詰まっていた。急いでいるのに、一つ書くごとに行を変えてある。
『線は名で届く。人でなくとも、川の名で受けられる』
知っている。白鹿川の岸で、大祭の夜の鷺の川で、数日前の蛍の川で、この指が三度確かめてきたことだ。
知っていることを母の字で読むのは、妙な気分だった。苦労して解いた問いの答えが、二十年前の紙に、一行で先に書いてある。
『名は低地の年寄りから聞いた。けれど呼ぶ声が、私一人では足りない』
蛍の川が私の一節で張ったのは、村の子どもたちが毎日、毬をつきながらその名を呼んできたからだ。母の川には、それがなかった。母は、一人で呼ぼうとしたのだ。
『院長様が、誰がどの名を呼んでいたかを記した台帳を開けてくだされば、足りたはずでした』
呼んでくれる人を探す手がかりは、院の棚にあった。母は、それを見せてもらえなかった。
けれど台帳がなくても、声なら村を回って集められたはずだ。
「……では、なぜ」
声が、狭い部屋に落ちた。
「なぜ、足りなかったのですか。お母様」
返事を待つように、しばらく耳を澄ました。階下で、誰かが椅子を引く音がしただけだった。
紙は答えない。「でした」の三文字だけが、急ぎの字の中でゆっくり書かれていた。
二通目は、厚かった。
開く前から分かった。この重さの紙を、一度、両手で持ったことがある。
十八の春の、自分の契約の写しだった。
条文は院の書記の角ばった字で並んでいる。一頁目の最後の行も、同じ角ばった字に見えた。
『婚約の解かれた夜より、本人はこの務めを退くことができる』
末尾の「る」だけが、前の字より一回り大きい。急ぐとき、母の字はいつも終わりで膨らんだ。
母の字だった。書記の角を真似て、自分の癖を消して書いてある。消しきれなかったのは、最後の一字だけだ。よく見れば「婚姻」と書いて線で消し、横に「婚約」と書き直してある。
息が止まった。
冬の終わりの大広間。殿下に婚約を解かれたその場で、自分はこの一行を読み上げた。掌の中で銀の印が二つに割れて、凍えていた右手に、初めて行き先が戻ってきた。
あの夜、私を外へ出した一行を、母が書いていた。
誰が入れさせたのか、六年、考えもしなかった。考えずに使って、助かって、自分の機転のように思っていた。顔が熱くなる。恥ずかしいのか、悔しいのか、自分でも仕分けがつかない。
頁をめくった。
第七条に、細い傍線が引いてあった。
『保証人の名を改めるときは、線の管理者がこれに立ち会う』
一文きりの条だ。余白に、母の字で。
『管理者を忘れないこと』
十八の私は、管理者とは院長のことだと思って読み流した。母は、そこにだけ線を引いている。
分からない。けれど、母が忘れるなと書いたものを、娘が忘れるわけにはいかない。傍線を指の腹で一度なぞって、頁を閉じた。
居間に下りると、窓の外はもう夕方の色だった。
階段の途中で、封筒を胸に抱え直した。裾の粉を払い、それからまた下りた。払ったところで、顔に何が出ているかは隠せないのだけれど。
暖炉の脇に、割れた茶器の欠片が布にくるんで寄せてある。父は肘掛け椅子に沈み、アレクシスはその隣の硬い椅子に、背を伸ばして座っていた。
リディアは二通を卓に置き、三通目は手に持ったまま、父の向かいに立った。
父は卓の上の写しに目をやり、それが何か分かったところで、すぐに逸らした。逸らした先に客の顔があって、また困ったように暖炉へ戻った。
「お父様。母は、辞めたあと、どこへ行くつもりだったのですか」
父の口が開いた。
開いたまま、何も出てこなかった。薪のはぜる音のほうが先だった。
「……知らん」
「白鹿村へ、でしょうか。それとも」
「知らんと言うておる。聞いたことが、なかった」
父は椅子の腕を握り、娘から目を外した。
「あれが辞めると言うたのは覚えておる。どこへ、とは……聞かなんだ」
それなのに次の息で、声は家長の調子に戻った。
「もうよかろう。あれがお前に残したのは、その一行だ。それで足りるであろう。紙はしまえ。今日はもう休め」
「足りません」
「足りる!」
父が立ち上がった。椅子が後ろへずれて、床をこすった。
「院から、あれの書いた物は全部焼けと言われたのだ。弔いの夜にな。使いが来て、一枚残らず、と。わしは焼くと答えた」
怒鳴り声が、天井の梁に当たって割れた。暖炉の火が、その影を壁いっぱいに伸ばしている。
「焼けと言われた夜のことを、お前は知らん。わしがあの部屋で、何を抱えて、朝まで――お前は、知らんのだ!」
それきり、続かなかった。父は自分の大声に打たれたように、口を開けたまま立っていた。
アレクシスは動かなかった。止めもせず、腰も浮かさず、父の隣で膝の上の左手を握っていた。曲がった小指だけが、握りきれずに浮いている。
リディアは、父をまっすぐ見た。
「……お父様は、ずるいです」
それだけだった。子どものころの言い方しか、出てこなかった。
父の肩が、ゆっくりと下りた。腰を下ろし、しばらく暖炉を見ていたが、やがて厨の方へ顔を向けた。
「茶を……茶を二杯、頼む」
運ばれてきた一杯目を、父は受け取りそこねた。受け皿の上で茶が跳ね、膝を濡らした。父は拭きもしなかった。
残った一杯を、アレクシスが黙って取り、取っ手をリディアの右手の側へ回して置いた。
「熱い」
「存じております」
両手で包むと、掌がじんとした。一口すすって、舌を焼いた。
リディアは茶碗を置き、手の中の三通目を、卓の真ん中に置いた。
宛名は『リディアへ』。封は閉じたままで、折った紙が一枚、細い糸で結びつけてある。
父の目が、その封に吸い寄せられた。
「それだけは、わしも開けておらん」




