今夜、あの子の手を温めに行きます
夜の母の部屋には、食堂から運び上げた椅子が二脚、並んでいるだけだった。
リディアは片方に腰を下ろし、膝の上の封筒を見下ろした。壁の穴は燭台の明かりが届かず、黒い口を開けたままだ。窓の外では、秋の虫が一匹だけ鳴いている。階下からは、もう物音一つしない。父はまだ、居間の暖炉の前で、冷めた茶を見ているのだろうか。
居間で父に「ここで開けろ」と言われ、首を横に振って上がってきた。母の手紙を、父の顔色を見ながら読むのは嫌だった。
かといって、一人で読むのも嫌だった。
十八で院へ行くと決めたときも、大広間で婚約を解かれたときも、一人で平気だったくせに。封筒一通が怖いなんて、我ながら情けない。
戸口に、黒い外套の背が立っている。部屋へは入らず、廊下にもいない。ちょうど敷居の上だ。
「アレクシス様」
背が振り向いた。
「一人では、読みません。隣に、いてください」
彼は頷き、もう一脚に腰を下ろした。外套は脱がず、椅子の背にも掛けなかった。
それから椅子ごと、ずり、と寄ってきた。脚がこちらの脚に当たって、こつんと鳴る。
「……近いです」
椅子が、指一本ぶんだけ戻った。
たった指一本。この人の譲歩は、いつもきっちりしている。笑いそうになって、やめた。今夜は笑う夜ではない、と思ったのだ。
封は、母の蝋だった。
その上から、麻の糸が十字に回してある。結び目は、荷を縛るときの固い形。父が荷馬車の綱を締めるとき、昔から使っていたやり方だ。
父はこの糸で、封が誰にも開けられないようにしたのだ。父自身の手にも。
糸をつまむ。
ほどけない。爪の先で結び目をつつき、輪の一つを引き出そうとして、するりと逃げられた。
おかしい。指は温かい。冬の朝のように鈍っているわけでもない。それなのに、借り物の手みたいに、言うことをきかない。
王宮で六年、他人の結び目なら何百とほどいてきた手が、父の糸一本に負けている。
三度目に、糸の輪が爪にかかった。そのまま引き抜く。
十字の糸が外れ、折りたたんだ紙が一枚、膝の上へ滑り落ちた。それは脇へ置いた。順番は、母が先だ。
蝋に親指を当てる。ぱきり、と乾いた音がして、封が開いた。
中には、便箋が一枚きり。母にしては、ずいぶん短い。三枚書いても書き足りない人だったのに。
『リディアへ』
見慣れた、右へ傾いた字だった。
『お母さんは今、白鹿村の宿で書いています。
急ぐので、用件から書きます。
院長様のお言いつけで、峠の結び目小屋の台帳から、お母さんの名が削られました。代わりに、エルンスト家と書かれました。
今朝、お母さんの手から冷えが消えました。それで分かりました。
家の名で結ばれた線は、その家で線に手の届く者を探します。院にいるあなたの右手です』
リディアは紙から目を上げなかった。上げたら、続きが読めなくなる気がした。
骨が割れるほど冷えた、あの日。理由を探しもせずに、ただ耐えた。その朝、母は遠い村で、自分の手が温かいことに気づいていたのだ。
『今夜、峠の小屋へ行きます。あなたの線に手を当てて、一晩、お母さんが代わりに受けます。
太い線は、お母さんの名へ結び直します。細い線は、村の小川と白鹿川に一本ずつ預けます。川一本が受けられるのは、細い線一本きりだから。
そうしてあなたを外したら、家へ帰ります』
まるで、晩の献立を書きつけるような調子だった。小屋へ行く。受ける。結ぶ。帰る。
帰る、と書いてある。母は、帰るつもりだったのだ。
『あなたに線が見えるのは、お母さんの指に似たからです』
リディアは、思わず自分の右手を見た。
この指のせいで院に見つかり、この指のせいで冷えてきた。厄介な授かり物だと、ずっと思っていた。
お母さんに、似た。
それだけで、指の白い痕まで、少し違うものに見えてくる。
『契約の第七条を覚えていますか。保証人の名を改めるときは、管理者が立ち会う。
立ち会った院長様は、その名の請け人になります。名が偽りなら、線が外れたとき、冷えは院長様の手へ落ちます。
だから院長様は、偽りの名では結びません。本物の名だけを欲しがります』
第七条。母が傍線を引いていた、あの一文きりの条だ。
手の中で、紙がかさりと鳴った。指に力が入っていた。
残りは、一行だけだった。
ほかの行よりも字が急いで、斜めに滑っている。
『寒い朝は、お父様の脇の下で指を温めなさい。あの人は怒るけれど、逃げないから』
ふ、と息が漏れた。
お父様の、脇の下。あの口ひげの父が、娘の冷たい指を脇に挟まれて、何をするか、とか、はしたない、とか言いながら、それでも椅子から立ち上がらずにいるところが、目に浮かんでしまった。
浮かんでしまったら、もうだめだった。
肩が揺れた。声が出た。笑っているのに、手紙の字がにじんで見えない。
何が、用件から書きます、だ。峠へ行く話を献立みたいに並べておいて、気持ちを一行しか書かないで、その一行が、これ。
笑い声の途中から、喉が勝手に引きつった。紙を濡らさないように顔を背けて、リディアは泣いた。
五年前の冬、一晩だけ指が温かかった。
院の詰め所で、誰かが熱い葡萄酒の杯を差し出してくれた。いつもなら卓に置いてもらう杯を、その夜は両手で受け取れた。熱くて、掌がじんじん痛んだ。痛いのが嬉しくて、離さなかった。
あの熱は、母が峠の小屋で、娘の線を自分の身体へ引き取っていた熱だった。
隣の椅子は、一度もきしまなかった。
アレクシスは膝に両手を置いたまま、前を見ていた。慰めの言葉も、肩へ伸びる手もない。泣き終わるまで、ここにいる。そういう座り方だった。
それがありがたかった。今、背中をさすられたら、きっと朝まで止まらない。
リディアは袖で目を拭い、手紙を元の折り目どおりに畳んだ。
脇に置いていた紙は、端が古くなって反り返っていた。片手では、破かずに開けそうにない。
畳んだ手紙を、隣へ差し出した。
アレクシスは、それを両手で受けた。掌を上に向け、水の入った皿でも預かるように平らに持つ。傾けないように、という持ち方だった。
預けてしまうと、自分の両手が空いた。こんなに軽いのに、どこにも置けなかったものを、この人は黙って持ってくれている。
リディアは、反り返った紙を取り上げた。
二つに折った、薄い紙だった。
外に、母の字で『あなたへ』。娘への手紙と同じ呼び方だ。
開く。
二行しかなかった。
『今夜、あの子の手を温めに行きます』
『院長様の杖持ちの若い方が、峠まで送ってくださるそうです』
あの子、と母が書くなら、それは私だ。これは、父に宛てた書き置きだった。
母の荷と一緒に、宿から父のもとへ戻ってきたのだろう。父はこれを読み、五年、壁の中に置き、娘への封にだけは糸で結んで添えた。自分の口では言えないことを、紙に言わせるために。
この二行を、父は五年、どんな顔で読み返したのだろう。行くと言われて、止めたのか。止めなかったのか。言いかけて、言わなかったのか。
一行目を、もう一度読んだ。
母はこの部屋で、父に向かって、私のことをそう呼んでいたのだろうか。台所の女に夕食の数を告げるのと同じ声で。
二行目で、目が止まった。
杖持ち。院長様が杖を預ける男。
母は、帰ってこなかった。送ってくださるそうです、と書いて出かけて、それきりだった。残ったのは、峠の墓地の、父の字の埋葬記録だけだ。指が何かを握った形のまま、と記された父の字を、リディアはこの目で見ている。
隣で、衣擦れの音がした。
アレクシスの右手が、膝の上で拳になっていた。左の掌には、預けた手紙がまだ平らに載っている。傾けないまま、右の拳だけが、関節が白くなるほど固く握られていた。
「あなたの手袋から出た楔には、院の焼印があった」
それきり、彼は口を閉じた。
春先の峠。雪崩に巻かれながら、手袋ごと握りこんで放さなかった木の欠片。あの雪の中で、自分だけが男の声を聞いている。生きて連れて来い、と。
王都を発った夜、宿の戸口で聞いた声に、似ていた。
リディアの背中を、首筋から腰へ、細い冷たいものが一本、まっすぐに降りていった。
手の中の書き置きを、そっと伸ばす。母の字の「若い方」に、燭台を寄せる。
王宮の回廊で、祈りの間の戸口で、院長が誰かの手を取るたびに、その半歩後ろで杖を預かっていた男がいた。右の手袋を一度も外さず、話しかけても次にすることしか答えない男。
ディルク。
五年前なら、まだ若い方と呼ばれる年だった。
虫の声が、いつの間にかやんでいた。
「私が知っている六年、院長様の杖を持っていたのは、ずっと同じ人です」




