燃やせなかった父
「マリアンヌはな、峠を下りるとき、荷は自分で持つと言い張りおった」
朝の母の部屋で、父は壁の穴を向いたまま言った。隣の椅子のリディアは、膝の上で組んでいた指をほどいた。
あれ、ではなかった。父が母を名で呼ぶのを、聞いた覚えがない。
父は眼鏡を外して膝に載せていた。鼻の付け根に、赤い跡が二つ残っている。昨夜は外さずに眠ったのだろう。
「それが、坂に来ると一つ寄越す。干し肉の包みを寄越す。次の曲がりで種の袋を寄越す。お前に見せると言うて拾った川の石まで、わしの外套の物入れに押し込みおった。家に着くころには、あれは手ぶらで、わしが全部担いでおった」
白い小石だった。母はいつも一つだけ、北から持って帰ってきた。窓辺に並べて、ここが白鹿村の川、と指でなぞってみせた。
そうか。あの石は、父の物入れに入って坂を下りてきたのか。
「五年前も、迎えに行った」
父の声は変わらなかった。荷の話と同じ調子のまま、峠へ入っていった。
「墓地は雪だった。墓守が、あれの外套を畳んで、雪の上に置いておった。紺のな。わしはそれを抱えて帰った。荷は、それ一つきりだ」
膝の上の眼鏡が、かちりと鳴った。
「あれは、帰りたがっておった。外套の釦が、上まで全部留めてあった。帰り支度をした者の着方だ」
リディアは息を詰めて、次を待った。
父は、鼻の赤い跡を指でこすった。
「……干し肉と言えばな。あれの干し肉は塩がきつうて、わしはいつも水を――」
「なぜ、私には言わなかったのですか」
干し肉の話の途中に、短く差し込んだ。
怒っているのではない。ずっと喉の奥で冷えていた問いが、ようやく外へ出ただけだ。リディアは膝の上の指を、もう一度組み直した。
父は黙った。
窓の外で、鳩が二度鳴いた。廊下の向こうで、女中が水桶を置く音がした。それでも父は黙っていた。膝の眼鏡のつるを、指でたたんではひらいた。
「燃やせなかった。それだけだ」
言い訳も、体面の話も、その後ろに続かなかった。
分からないまま五年、壁を塗って、その前を通り過ぎてきた。
「リディア」
父が言った。
言ってから、父は口をつぐんだ。自分の唇から出た音を確かめるように、ゆっくりと眼鏡をかけ直し、そのまま壁の穴を見ていた。続きは来なかった。
リディアも、何も足さなかった。足したら、今のが消えてしまう気がした。
午後、応接間に、また使いが来た。
院寄りの伯爵家から、例の誓約を携えて。本人の欄は白いまま、父の署名だけが角ばって残っている紙だ。
「お嬢様のお考えも、日を置けば変わろうかと存じまして」
リディアが口を開くより先に、父が卓の向こうから手で制した。
「誓約は取り下げる。わしの名ごとだ。証文は、家の物を売って返す。そちらの主にも、院にも、そう伝えい」
「伯爵様、それではお手当が止まりますぞ。このお屋敷のお暮らしも」
「止まればよい。暮らしは、身の丈に戻すだけだ」
使いが言葉を探しているあいだに、父は書き物机から一枚の紙を取った。院の紙ではない。家の便箋だ。宛名に、王家の家令の名を書いた。
宮廷の役を辞する願い、と一行。
それから、署名の欄へ筆を下ろした。
オスカー・エルンスト。
ゆっくりだった。一字ずつ、石を積むように書いた。院の紙にも、縁談の紙にも、父の名は人に言われた場所に置かれてきた。その名が、初めて父自身の用事のために、紙の上を進んでいく。
この人の字がこんなにまっすぐだとは、知らなかった。
使いは誓約を胸に戻し、一礼して帰っていった。門の閉まる音が、いつもより軽く聞こえた。
翌日、エルンスト家には朝から道具屋が出入りした。
食器棚の扉を開け閉てする音、燭台を数える声。売れる物を測られている家の中で、リディアは二階の廊下の突き当たりまで逃げた。
古い戸棚と壁のあいだに、膝を抱えて座り込む。
七つのころは、ここに体ごと入った。今は肩がつかえて、靴の先がはみ出す。
昔もはみ出していた。母はそれを見て、あら、どこへ行ったのかしら、と三度も言いながら、わざと通り過ぎてくれた。
足音が来た。
重い靴だ。廊下の真ん中で止まり、こちらへ数歩寄った。床板が一枚、きいと鳴った。
引き出されるのだろう、と思った。ところが、足音はそれ以上近づかなかった。
「廊下の突き当たりにいる。呼べる所に」
黒い外套の裾が、戸棚の陰から見える所に立った。それきり、壁に背を預けて動かない。
リディアは膝に顎を載せて、その裾を眺めた。下の階で、道具屋が「この長椅子は脚が一本ぐらつきますな」と言っている。
しばらくして、自分から這い出した。スカートに埃の帯がついていた。
「アレクシス様。いつから、そこに」
「道具屋が燭台を数え始めたころから」
それなら、ずいぶん前だ。
「靴、見えていましたか」
「右が見えていた」
「見ないふりをしてくださればよかったのに」
「した。見えていたから、立っていた」
アレクシスは、彼女の袖の埃を一度だけ払った。それから、廊下の窓の方へ目を外した。
「兄も知っていた。私が隠れる所を」
短い一言だった。その兄は、もういない。
その人にも、隠れた弟を探して廊下を歩いた冬があったのだ。
「誰も探しに来ないと、出るときに困る。だから、あなたが隠れたら、私はここに立つ。契約に足しておく」
「そんな条項、ございません」
「今、足した」
口の中で、何か言い返そうとして、やめた。言い返したら負ける気がした。もう負けている気もした。
その日の午後、彼は布袋を提げて、庭の母の花壇の前にしゃがんでいた。
袋の中は、茶色い玉ねぎのような球根だった。雪割草、と彼は言った。
「日の当たる側に、芽を上にして並べる。土は柔らかく、水は植えたあと一度。霜の前に済ませる」
花屋で聞いたままを、一語も違えずに暗唱しているのが分かった。真顔で。
「深さは」
「そこだけ、花屋は家ごとに違うと言った」
彼は立ち上がり、勝手口の石段に出てきた父の方を向いた。
「エルンスト伯。この花壇の深さを訊きたい」
父は少しのあいだアレクシスを見て、それから庭へ下りてきた。膝をつき、人差し指を土に差し入れる。第二関節まで沈めて、抜いた。
「これだけだ。北の角は粘土が出る。砂を一握り混ぜい。マリアンヌは、そうしておった」
花壇には、雑草が一本もなかった。母がいなくなってから、誰も手を入れていないはずの土だった。
リディアは父の指の爪を見た。黒く、土が詰まっていた。
アレクシスが、言われた深さで一つずつ球根を沈めていく。三つ目で、父が短く言った。
「公爵殿、それは逆さだ」
「……芽の方が、丸い」
「尖った方が芽だ」
アレクシスが、黙って球根をひっくり返した。リディアは唇の内側を噛んで、顔を花壇の外へ向けた。
父は北の角に砂を撒いた。並んでしゃがんだ二つの背中は、どちらも土で汚れていた。リディアは如雨露を持ってきて、言われた通り、一度だけ水をやった。
「いつ咲きますか」
アレクシスは土を掌で押さえたまま、少し考えた。
「春に咲く。……咲くらしい。花屋がそう言っていた」




