院長と、門の前の靴
肘まで上がった霜の筋が、針を持つ指を鈍らせていた。
院長室の窓辺で、祝福院の長ヴォルフラムは、子どもの靴の片方を膝に載せていた。踵の革が剥がれかけている。寄付の箱に、対になる片方は入っていなかった。
片方は、明日の箱に入っているかもしれない。そう思うことにして、針を取った。
針先が革に入らない。指の腹の感覚が、手袋をもう一枚はめたように遠い。
戸が叩かれた。
入ってきたのは、配給係の若い神官だった。紙の束を胸に抱え、廊下を走ってきたのか、肩で息をしている。
「院長様、移送の書類を、お持ちしました。ですが、その前に」
神官は紙を胸から離さなかった。
「水場の者たちの家族が、門に来ております。会わせてほしいと。会えないなら、せめてこれを渡してほしいと」
院の水場で水を飲み、自分の名を言えなくなった者たちのことだ。
書類の上に、折り方のばらばらな手紙が重ねてあった。封蝋のあるもの、紐で縛っただけのもの。字の書けない誰かに代わって書いたらしい、角ばった代筆の一通。
「その一通は、字の書けない母親が、娘の名のところだけ自分で書いたそうです。そこだけ、字が震えていて」
神官が爪の先で示した三文字は、大きさも傾きもばらばらに並んでいた。
ヴォルフラムは靴を箱に戻し、神官の口もとを見た。唇が乾いて、白く割れている。
配給係は、配り終えるまで自分の椀に手をつけない。今日の昼も、そうだったのだろう。
呼び鈴を鳴らし、来た下働きに、温かい汁とパンを一人ぶん、と頼んだ。
「院長様、私は結構です。それより、門の方を」
「書類は逃げませんよ。先に、それを片づけなさい」
汁が来ると、ヴォルフラムは自分の椅子を暖炉の側へ引いて神官に譲り、椀の縁を布で包んで持たせた。熱い器を素手で持たせない。院の厨房に、彼が最初に教えたことだった。
神官は困った顔のまま一口すすり、二口目からは黙って食べた。パンをちぎる指に、少しずつ血の色が戻っていく。
そのあいだに、ヴォルフラムは紙を一通ずつ揃えた。折れた角を伸ばし、緩んだ紐は結び直した。封は、一つも切らなかった。
椀が空になるのを待って、言った。
「手紙は、ここで預かります」
神官のパンが、膝の上で止まった。
「では、明日にでも、皆に」
「あの人たちは今、自分がどこの誰かも覚束ないでしょう。そこへ母親の字が届いたら、どうなりますか」
神官は答えなかった。
「読めれば、帰りたくなります。帰れる身体でもないのに、帰りたい気持ちだけ持たされる。熱のある子から、毛布を剥ぐようなものでしょう。落ち着くまで、手紙はこちらで温めておきましょう」
神官は口を開け、また閉じた。
そのあいだに、ヴォルフラムは書類を引き寄せ、署名の欄にペンを下ろした。霜の筋が、ペン軸を握る指をまた遠くした。それでも字は、いつもの形で紙に収まった。
「今夜のうちに。静かな部屋へ」
「……はい」
書類を抱え直して戸口へ向かう背に、彼は言い足した。
「荷台に、毛布を一枚ずつ多く積みなさい。前の移動では、足りなかった。夜明け前がいちばん冷えますからね。あなたも、外套を着ていきなさい。その唇では、明日は声が出ないでしょうね」
神官は振り向いて、深く頭を下げた。
戸が閉まった。卓の端に、封の切られていない手紙の束が残った。
日が傾くまでに、靴は半分しか縫えなかった。
針を通す。引く。糸が革に噛む手応えが、指先まで上がってこない。肘の奥で、霜の筋が鈍く疼く。手袋と長い袖の下、誰の目にも触れない場所だ。
針を置いた。
靴を握ったまま、ヴォルフラムは動かなくなった。
二十年前の、疫病の冬だった。あの靴も、踵が剥がれかけていた。
王都の灯の揺れを、自分の身体の冷えで引き受けていた保証人が、ある晩、耐えかねて逃げた。受ける者がいなければ、灯はいずれ落ちる。
翌朝、院長室の戸を叩いたのは、エルンスト伯の奥方のマリアンヌだった。北の白鹿村の生まれで、線を指で読む契約官でもあった。
「人でなくても、受けられます。川の名で」
皆が毎日その名で呼んでいる川なら、人の代わりに揺れを受ける。だから呼ぶ人を集めたい。そう言って、彼女は院の封じた台帳を開けてほしいと頼んだ。昔どの通りの誰が、どの名で川を呼んでいたか。それが書いてある台帳だった。
表紙には、王家の封が押してあった。
ヴォルフラムは、その封の上に手を置いた。
「王家の封ですよ」
マリアンヌは、低地の年寄りから川の古い名を聞き出していた。けれど低地の門は疫病で閉じられ、呼んでくれる人を集めに入れなかった。
彼女は、自分一人の声で呼べる川を一つだけ選んで、試した。一人の声では、足りなかった。
その夕方、治癒院の門の灯が落ちた。
暗がりで、列が崩れた。咳をする者、子を抱いた者、戸板の病人を担いだ者が押し合った。ヴォルフラムは八つの息子を門脇の腰掛けに座らせ、肩を一度押さえた。
「ここにいなさい。動いてはいけませんよ」
息子は頷いた。踵の剥がれた靴の先が、腰掛けから浮いて揺れていた。
彼は紙を持って、門の係の方へ行った。人の背を分け、灯をともし直す手配を書きつけ、署名して、戻った。
腰掛けの下に、片方の靴だけがあった。
窓の外で、晩の鐘が鳴った。
ヴォルフラムは、手の中の靴を見下ろした。寄付の箱から出てきた、知らない子の靴だ。縫い目はまだ半分で、革が口を開けている。
針を取り直した。指は鈍いままだった。残りの半分を縫い終えるまで、彼は一度も顔を上げなかった。
燭台に火を入れたころ、鉄の石突きが廊下の石を打つ音がした。
入ってきたのは、杖持ちのディルクだった。手配が出てからは門の外で杖を預からなくなった男が、今は自分の鉄の杖だけを提げている。外套の肩が、夜露で黒く濡れていた。
「戻りました」
「肩を拭きなさい。濡れたまま立っていると、膝に来ますね」
ヴォルフラムは布を差し出した。ディルクは受け取ったが、使わなかった。
「西の村。水を飲んで名を失くした子らが、名を取り戻していました」
鉄の杖を戸口の脇に立てかけてから、続けた。
「母親が名を呼ぶと、子が返事をしました。エルンストが、村の母親たちに、小川へ向かって子の名を呼ばせていた。それで」
ヴォルフラムの手が、手袋のまま袖の上から肘を押さえた。
秋の石壁は、日が落ちると床から寒さが上がってくる。彼はそう思って、その手を膝へ戻した。
「よく見てきてくれましたね。往きも帰りも、馬を替えなかったのでしょう。目の下が青いね」
ディルクは、それには答えなかった。
乾いたままの布を卓に置き、珍しく自分から口を開いた。
「院長様。冬の前に、ペトラに」
院の保護院に預けている、ディルクの妹だ。
「この前、名を呼んでも、振り向きませんでした。冬のあいだのことでしょう。……顔だけ、見られれば」
ヴォルフラムは立ち上がり、ディルクの右手を取った。手袋の上から、火傷の残る甲を、両の掌で包んだ。
「療養の部屋にいます。冬を越したら、会えますよ。それまでは、あなたが倒れないことです。この手は、雨の夜にはまだ痛むでしょう」
療養の部屋、と彼は言った。保護院、とは言わなかった。
ディルクは包まれた手を見下ろしたまま、引かなかった。
ヴォルフラムは手を放し、卓の端の手紙をまとめて引き出しへ入れ、静かに閉めた。それから、背の高い杖持ちを見上げた。
「北の娘を院へ。今度は、本物の署名を」
その夜のうちに、ディルクは、エルンストの娘が宿へ帰る道にある、貴族街の院の施薬所の鍵を受け取った。




