王太子、初めて読む
ユリウスは、三本目の燭台に火を移していた。
王太子の私室の卓を、夜にこれほど明るくしたことはない。いつもは一本で足りた。読む物がなかったからだ。書記が読み、侍従が要点を言い、彼は末尾に名を書けばよかった。
卓の端に、紐で括った束がある。夏の終わりの判決のあと、王家への支払いの命令と一緒に運ばれてきた、審問記録の写しだ。命令の方は宰相が持っていった。写しの方は、誰も持っていかなかった。
書記を呼べば、半刻で要点を言ってくれるだろう。そして明日の昼には、殿下はご自分でお読みになれないらしい、と回廊の端まで伝わる。
一週間前の村が、頭の隅から離れなかった。荷車の隅に積まれていた、院の青い瓶。あれが何で、誰の名で運ばれていたのか、彼は知らなかった。知らないまま、王家の紋のついた荷台に載せていた。
紐の結び目に爪を立てて、ほどいた。
法廷の書き言葉は、一文が長かった。声に出すと余計に分からなくなる。ユリウスは口を閉じ、指で行をなぞった。
三度読み返して、ようやく一枚目の中身が分かった。
王宮の厨房の湯を沸かす奇跡。その揺れを、一つの家に負わせる契約だ。負わされた家は、エルンスト。
二枚目は、市場の商いの灯。三枚目は、治癒院の癒し。紙は三十六枚あって、どれも王都の暮らしを支える奇跡を一つずつ、同じ家に負わせていた。
そして、どの末尾にも副署の欄があり、そこに彼の名があった。
日付は六年のあちこちに散らしてある。春のもの、真冬のもの、彼がまだ十代だったころのもの。
けれど彼は、書いた朝を覚えていた。
婚約を解いて、三日後の朝だ。謁見の合間に、侍従が束を差し出した。卓には焼いた腸詰めと卵が並び、祝宴の夜の騒ぎが、まだ耳の奥に残っていた。名を書いては指輪を押した。
あの朝は忙しかった。
謁見が詰まっていた。侍従が急がせた。院長様からの古い書き付けの手直しだと、侍従は言った。宰相も何も言わなかった。
言い訳は、四枚目の前までは続いた。五枚目で、宰相がその場にいなかったことを思い出した。六枚目で、腸詰めを切りながら左手で頁をめくっていた自分を思い出した。急がせたのが誰であれ、ペンを持っていたのはこの右手だった。
七枚目からは、言い訳を探すのをやめた。
蝋が一本ぶん短くなったころ、最後の一枚までたどり着いた。
ユリウスは頭から揃え直し、今度は末尾の自分の名だけを、一枚目から指で押さえていった。
一つ。二つ。
十を過ぎたあたりで、指先が湿ってきた。二十を過ぎると、写しの端が少し波打った。
三十六。
息が、喉の途中でつかえた。吐こうとして、吐き方を忘れたように、しばらく胸の中に溜まっていた。
腹が立った。急がせた侍従にでも、黙っていた評議にでもない。三十六の末尾に同じ筆で並んでいる、あの名に、腹が立っていた。評議が彼の署名を外したのも、この名のせいだ。
束のいちばん後ろに、一枚だけ古びたものが挟まっていた。十八の娘が自分で署名した、大広間の灯の一件だ。一頁目の最後の行に、別の手で書き足した一行がある。
『婚約の解かれた夜より、本人はこの務めを退くことができる』
あの夜、扉を開けたのは、彼女ではなかった。自分の宣言だった。
蝋燭の一本が、芯を焦がして小さく鳴った。
ユリウスは写しを揃え、紐を手に取った。これで終わりだ。灯を消して、寝台へ行けばいい。
紐を回そうとして、古い一枚のさらに下に、色の違う一枚があるのに気づいた。院の、青みがかった紙だ。日付は、この春。
表題に、保護命令とあった。
『リディア・エルンストを、院において保護する』
末尾に院長の署名と、その下に彼の名。
覚えていなかった。春の謁見のどこかで、何かの束に混ざっていたのだろう。
もう一度、頭から読んだ。期限の欄は空いていた。取り消しの印も、どこにもない。
王太子が副署した院の書き付けは、王家の命令になる。だからこれを持つ者は、誰でも、彼女を院へ連れていける。
青い紙が手から抜けて、卓に落ちた。拾おうと伸ばした袖が燭台をかすめ、三本の火が揃って大きく傾いだ。
宰相あての便箋を出して、ユリウスは書いた。
『院の保護命令、春の日付のもの、いまだ効力あり。直ちに止められたし』
三行しかないのに、二度書き損じた。誰に要点を言わせることもできない文面だった。
呼び鈴の紐に手を伸ばしかけて、下ろした。侍従に預けても、宰相の副署のない封は、朝までにこの卓へ戻ってくるだけだ。この夏から、王太子の書面はそういうものになった。
ユリウスは手紙を袖に入れ、燭台を一本取って、自分で戸を開けた。
夜の回廊を、灯を持って一人で歩くのは初めてだった。いつもは前に一人、後ろに一人、誰かがいた。宰相の部屋がどの角を曲がった先なのか、自分の足では覚えていなかった。二度、曲がる所を間違えた。
宰相の部屋の前の廊下は、まだ暗かった。窓の外の空が、端だけ薄く灰色になりかけている。
戸の脇の腰掛けに、先客がいた。
背が高く、黒い外套を膝まで垂らしている。手袋をしていない手が、膝の上で組まれていた。
北の公爵、アレクシス・ヴァルハルト。この数日、エルンスト家に通っていると、回廊で噂を聞いた男だ。
「こんな時刻に、宰相の戸の前で何の用だ。夜明けを待てぬほどの話でもあるまい」
アレクシスは立って、礼をした。
「殿下。低地で、院の瓶を運んでいた男が捕まった。その晩、運び屋の家が焼かれた。その件で来ている」
院の瓶。荷車の隅の、あの青い瓶だ。
手元の灯が、男の左手の、曲がったままの小指を照らした。
「……いつからそこにいる」
「一刻」
ユリウスの右手が、左の袖口へ動いた。
この男に渡せばいい。宰相の副署など要らない。この男は今日のうちに、自分の足で彼女のところへ運ぶ。
指先が袖の縁に触れた。
渡せば、この男は封を切る前に訊くだろう。何の命令だ、誰が副署した、と。答えるまで、黙って待つ男だ。
そうしたら、自分の口で言うことになる。春に、読まずに書きました、と。この男の前で。
指は、袖の縁から先へ行かなかった。
アレクシスの目は、宰相の戸に向いていた。王太子の手元にも、顔にも向いていない。
目をそらしたのは、ユリウスの方だった。
燭台を持ち直し、彼は廊下を引き返した。背中で、腰掛けがもう一度きしむ音がした。
階段の角を曲がるまで、振り返らなかった。
袖の中で、自分の字で宛名を書いた封の角が、手首の内側に当たっていた。乾いて、硬かった。




