母の部屋は、六尺狭い
父の家のスープは、昔から熱すぎた。
取っ手が二つある椀を、リディアは両手で包んだ。熱いものを熱いうちに口へ運ぶのは、北の城ではもう当たり前になっている。それでも、この家の、この椀だけは、まだ手が待つ形を覚えていた。
待たずに持ち上げた。
昔はこの椀を卓に置いたまま、湯気が消えるのを待っていた。すっかりぬるくなってから、匙で端の方だけをすくって。
それが今は、口の縁まで運べる。笑いが勝手にこぼれて、椀の中の油の輪が、ふるりと崩れた。
「何が可笑しい」
父が言った。さっきの問いには、まだ答えていない。
「底に、蕪が沈んでおりました。この家のスープに蕪が入っていたなんて、知りませんでした」
「……狭いと言ったら、狭いのだ。あれの部屋の話は、もうよい」
父はナプキンで口ひげを押さえ、向かいのアレクシスへ顔を向けた。都合の悪い話を客の方へ逃がすときの、昔からの首の角度だった。
「公爵殿。北の冬は、どれほど続く」
「半年」
「城には、何人おる」
「三百十二人。馬は入れていない」
訊かれた分だけ、きっちり返ってくる。父は家の格を探るつもりで訊いているのだろうが、返ってくるのは帳簿の一行ばかりで、体面の話を継ぐ隙間がない。
父は咳払いを一つして、本命らしい問いを出した。
「して、娘の働きは。公爵殿の帳面では、いかほどになっておる」
「値はつけられない」
父の匙が、皿と口のあいだで止まった。
言ったアレクシスの方も、自分の皿を見下ろしたまま、黙っていた。
「……賃金なら、帳面にある。額も言える。言うか」
「い、いえ。それは雇いの条件のお話で、こういう席で申し上げるようなことでは、その……」
語尾がどこかへ逃げていった。リディアは椀に顔を半分沈めた。顔が火照るのは、スープのせいだ。
父は手を宙に浮かせたまま、娘と客を交互に見ている。家長の顔を作り直すのに、ずいぶん手間取っていた。
厨の戸が開いて、焼いた林檎の匂いが流れ込んできた。
皿を運んできたのは、昔この家で働いていた女だった。人手の減ったこの家に、客があると聞いて手伝いに来てくれたらしい。腰が少し曲がっても、前掛けの紐の結び方は昔のままだ。
女は林檎の焼き菓子をリディアの前に置くと、手を前掛けで拭いて、しげしげと顔を覗き込んだ。
「大きくなられましたねえ」
「ご無沙汰しております」
「奥様が本をお読みになる長椅子の下で、よくお昼寝なすって。揺れないようにって、奥様、脚に板を差しておいででしたよ」
長椅子の下は、暗かった。
頭の上で頁をめくる音。どれだけ寝返りを打っても、目の前の木の裏は一度も揺れなかった。当たり前だと思っていた。母がそうしてくれていたのだ。
喉の奥に、焼き菓子でも詰めたように何かがつかえた。リディアは器を卓に戻した。
「それでねえ。奥様がお亡くなりになった、あの冬の終わりに、壁塗りの左官さんが入って――」
「その話は」
父の声が、女の言葉を断ち切った。
「その、……あれは、もう」
父は卓の呼び鈴を取り、短く一度鳴らした。厨へ下がれ、の合図だ。それから顎で娘の器を指した。
「食え。冷めるぞ」
冷めるのを待ってしか飲めなかった娘に、それを言うのか。
母が死んだ冬の終わりに、壁を塗る職人。
女は「あらまあ、口が過ぎました」と肩をすくめ、空いた皿を重ねて厨へ戻っていった。
食後の二階の廊下は、暗く、しんとしていた。
母の部屋の戸は閉まっていた。真鍮の取っ手には、手を掛けなかった。開けない理由なら、昨日この戸の前で、父の口から聞いている。同じ話を、二度させるつもりはない。
アレクシスは燭台を持ったまま、背中で階段の方をふさぐように立っていた。父が上がってきても、すぐには通れない場所だ。
「扉は開けずに、測ります」
母の部屋は、廊下の突き当たりまでを占めている。戸口から突き当たりの壁までを歩けば、部屋の長さになる。
リディアは戸の脇で踵を揃え、子どものころの、ちょこちょこした小さな歩幅で進み始めた。
伯爵家の娘が、夜の廊下を小股で行く。我ながら人に見せられた図ではない。でも、足の方が覚えている。何度も歩いた廊下だ。
「……それは」
「子どもの足です。笑ったら、解約です」
「笑っていない」
声が少し揺れていた。燭台の火も揺れていた。
「十四、十五、十六」
突き当たりの壁に、爪先がこつんと当たった。十六歩。昔と同じだ。廊下は縮んでいない。
階段がきしんで、あの女が上がってきた。手に小さな灯と、鍵を一本。
「旦那様のお言いつけでねえ。奥様のお部屋には、毎晩一つ灯を入れるんですよ」
女は鍵を回し、細く開けた隙間へ身体を滑り込ませて、戸を閉めた。
中に、灯が入った。それなら、外からでも数えられる。
「庭へ出ます」
庭は、もう冬の手前の匂いがした。
草に夜露が降りていて、靴の先がすぐに湿る。右手の白い痕が、きゅっと縮んだ。
アレクシスが黙って、彼女の右側へ回った。北の風が来る方だ。
「冷えたら言え。数えるのは私が代わる」
「数え方を、ご存じないでしょう」
「教われば覚える」
大真面目な声だった。リディアは唇を噛んでこらえ、二階の東の端を見上げた。
母の部屋の窓の並び。
一つ、二つ、三つ。女が入れた灯が、薄い窓掛け越しに橙色ににじんでいる。
四つ目は、暗かった。
同じ並びの、同じ枠の、同じ色の布なのに、そこにだけ夜が詰まっている。同じ部屋の中に灯があるなら、届かないはずがない。
廊下で十六歩ある部屋に、外から見える窓は四つ。窓一つが四歩ぶん。灯が入ったのは三つだけ――部屋の中は、十二歩ぶんしかない。
「四歩」
アレクシスが、四つ目を見上げたまま言った。
「さっきの歩幅なら、六尺だ」
長椅子のあった突き当たりの壁が、六尺こちらへ寄っている。
大きくなったから狭く見えるのですよ、と言われていたら、きっと素直に頷いていた。歩幅を子どもに戻せば、廊下は今も十六歩のままなのに。
燭台の火が、彼の顎の下で小さく鳴った。
父は、まだ食堂にいた。
客も娘も立ったあとの卓で、冷めたスープを前に匙を持っていた。飲むでもなく、置くでもなく。
階段を下りるあいだに、言い方を三通り考えた。どれも長すぎた。
リディアは戸口に立ったまま、腰を落として礼をした。外向きの、いちばん丁寧な礼を。
「お父様。母の部屋の奥の壁は、六尺、厚くなっております」
匙が、父の指から落ちた。
皿の縁で一度跳ね、床の上を転がって、卓の脚に当たって止まった。誰も拾わなかった。
父は娘を見なかった。床の匙も見なかった。スープの面だけを見て、それだけ言った。
「触るな」
厨の方で、女が皿を重ねる音がした。
アレクシスが、リディアの肩の後ろから一足だけ前へ出た。
「エルンスト伯。この家の物置に、槌は何本ある」




