私は、この縁談に署名しておりません
リディアの縁談は、本人の知らないうちに、もう誓約の紙になっていた。
昨日、院の副監ギーゼラが置いていった一枚――父の署名と見知らぬ家の紋が入った、あの写しの原本である。
それを卓に広げたのは、朝いちばんにエルンスト家を訪ねてきた使いの男だった。院寄りの、さる伯爵家の家令だと名乗った。
「お父上のご署名で、誓約は成っております。夏のうち、ちょうど法廷の前にいただいたものでございます、エルンスト様」
父は、卓の向こうで顔を上げなかった。
夏。法廷の前。
私が牢と法廷で院と争っていたあいだに、この人は、私の嫁ぎ先に名前を書いていたのか。
腹の底がすっと冷えて、そのくせ、驚いていない自分もいた。
「拝見いたします」
手を伸ばすと、使いは慇懃に紙を回してよこした。
厚くて、ずしりと重い紙だった。条文は、どれも行儀がよかった。嫁資のこと、住まいのこと、婚礼は春に。いちばん下に父の名と、あの紋。昨日の写しと、一字も違わない。
その下に、もう一つ欄があった。
「本人」。
何も書かれていない。
リディアは、その白い欄に人差し指をそっと当てた。
冷たい。
父の名も条文も乾いた手触りなのに、そこだけ冬の井戸の水に触れたように指先が痛む。紙の裏で、細い糸が一本、どこか遠くへ引かれているのが分かった。
――ここに書かせたいのだ。
縁談は、ついでだ。院がほしいのは、この欄に入る私の名前一つ。
条文の終わりに、但し書きが一行あった。
『本人がエルンストの名で署名して、誓約は成る』
つまり、父が書いただけでは、まだ何も決まっていない。
使いが、懐から携えてきた筆とインク壺を出し、卓の上にそっと並べた。
「お手間は取らせません。お名前を一つ、そちらへ」
「私は、この縁談に署名しておりません」
使いは、持ち上げかけた筆の軸を、卓へそっと寝かせた。
「家長の署名だけでは、娘の婚姻は成りません。本人の名のない誓約は、紙でございます」
リディアは誓約を両手で持ち、角を揃えた。折り目がつかないよう、使いの方へ向きを直して差し出す。
「どうぞ、お持ち帰りくださいませ」
使いは受け取った。受け取りながら、笑みだけは崩さなかった。
「エルンスト様。院のご厚意で整えた良縁でございます。ここでお断りになっては、お父上のお立場が」
「父の立場は、父が申し上げます」
使いは父を見た。父は茶器の縁を見ていた。
使いは咳払いを一つして、懐からもう一枚、小さな紙を出した。
「では、せめて受け取りを。誓約を確かにお返しいただいた、と、こちらにお名前を一つだけ」
諦めが悪い。誓約でも受け取りでも、私の名前さえ院の紙に載れば、どちらでもいいのだ。
「受け取りでしたら、そちらがお持ちのその誓約が、何よりの受け取りでございます」
使いの笑みが、初めて薄くなった。
小さな紙が、筆とインク壺と一緒に懐へ戻っていく。一礼は深く、足音は速かった。
玄関の戸が閉まる音を聞いてから、リディアはやっと右手を膝の上で握った。指先に残った冷たさが、なかなか抜けない。
「……あれは、夏の話だ」
父が言った。言いかけた続きは、いつまで待っても来なかった。父は立ち上がって窓辺へ行き、庭の方へ目をやった。
「公爵殿が、塀を積んでおられる。……客に土をいじらせて、わしは、何を」
その背中に掛ける言葉を、リディアは探さなかった。誓約は、返した。今日の分は、それで足りる。
庭では、ガルドが崩れた塀の石を積み直していた。
アレクシスは、その脇で石を数えるふりをしていた。ふりだと分かったのは、同じ石を二度数えたからだ。
「縁談の誓約は、お返ししました」
「聞いた」
「どなたから」
「使いが、門を出るときに舌打ちをした。それで分かる」
それきり、彼の口は閉じた。
「アレクシス様。何か、ご意見がおありでしたら」
「相手の家は、何人だ」
「存じません」
「五人だ。……畑は四十二枚」
知っているなら、なぜ訊いたのか。
リディアが首を傾げるより先に、彼は自分で言い直した。
「四十一だ。去年、川に取られている」
ガルドが、積みかけの石を膝に載せたまま顔を上げた。
「閣下、昨夜その家の畑を数えてたのかよ。宿の主に紋の本まで借りて」
「騎士団にいたころ、あの家から麦を買った。帳簿で覚えている」
「じゃあ川に取られた分は、いつ覚えたんだよ」
アレクシスは石を一つ拾って、ガルドの手元に置いた。ガルドは盛大に鼻を鳴らし、聞こえよがしに「飯の前に腹がいっぱいだ」と言いながら、塀の反対側へ回っていった。
二人だけになった。
可笑しかった。北の公爵が、見たこともない家の畑を一晩かけて調べ、一枚間違えて、律儀に直している。どんな顔でやったのだろう。宿の小さな灯りの下、紋の本の頁を指でたどりながら。
「その家に嫁げば、川に取られなかった畑が、全部ついてくるのですね」
「そうなる」
「それほどお詳しいなら、私も一度くらい、その家の畑を見に行けばよかったでしょうか」
彼の口が、何か言いかけて閉じた。
しまった、と思った。言い返しが一歩、先に出すぎた。昨日も、それで大事なことを言いそびれたのに。
リディアは息を一つ吐いて、もう一度言った。
「嫌だった、と申し上げる方が、早かったですね」
アレクシスは、何も言わなかった。
今度の沈黙は、さっきと違った。彼は塀の方を向いたまま、拾い上げた石の置き場所を探すように、手を宙で止めている。
あ、と思う。照れている。こちらの方が先に照れるはずだったのに、先を越された。
顔が熱くなる前に、リディアは庭の柿の木を見上げた。実が一つ、熟れすぎて枝の先に下がっている。あれは鳥に食べられる前に、誰かが取るべきだ。
「……あの柿」
「取ってくる」
彼は手の中のものを塀に据え、迷わず木の方へ歩いていった。
戻ってきた手のひらに、柿が一つ載っていた。皮が張りを失って、指で押せば崩れそうだ。
「熟れすぎだ」
「それがいいんです。崩れる手前が、いちばん甘いので」
彼は手のひらの柿を見下ろし、もう片方の手を下に添えた。雛でも渡すように両手で差し出してくるので、リディアは受け取りながら、とうとう少しだけ笑った。
夕方になって、父が庭へ出てきた。
積み直された塀を端から端まで眺め、口を開き、閉じ、また開いた。
「公爵殿。その、何だ。この家は今、厨が……人手も、品数も、昔のようには」
アレクシスは手についた土を払い、待った。急かしもせず、訊き返しもしなかった。
「……夕餉を、食べていかれるか」
「いただく。ガルドの分は厨で頼む」
「おい閣下、聞こえてるぞ」
食堂の卓は、リディアが覚えているより短かった。燭台の銀は曇っていて、皿は三枚とも縁の模様が違う。それでも、スープの湯気がまっすぐ立っていた。
父が席につき、ナプキンを膝に広げながら、目を合わせずに言った。今日は誰も、その部屋のことを口にしていなかった。
「あれの部屋は、使っておらん。狭い部屋だ。開けたところで、何もない」
リディアの匙が、皿の上で止まった。
狭い、部屋。
覚えているのは、突き当たりの壁際の長椅子だ。そこで本を読む母の足もとから、子どもの自分はその下へ潜り込み、床に頬をつけて、母の靴の先が拍子を取るのを見ていた。這い出した長椅子の端から窓まで、まだ子ども一人寝転べるだけの床があった。
向かいで、アレクシスがこちらを見たのが分かった。
リディアは匙を置き、父の伏せた顔へ向き直った。
「お父様。母の部屋は、あんなに狭かったでしょうか」




