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清めの水、只

 春にも、同じ列で客を取られた。今度の列は、橋を渡って店先まで来た。

 王都の低地、運河沿いで青い桶の魚屋を張るマーラは、その列の顔を端から見ていった。院の白い天幕の下で、係が青い瓶を一本ずつ手渡している。清めの水、只。

 見知った顔が、一つもない。

 洗い物の帰りに必ず小鰯を一山買っていく洗濯屋の婆さんが、今朝はいない。春にはこの列のいちばん前にいた婆さんだ。毎朝の鯖を値切りに値切る大工の女房も、列にも店先にもいない。

 氷が減っていく。昼までに売り切らなければ、残りは猫と自分の晩飯だ。

 マーラは前掛けで手を拭き、列の脇を天幕まで歩いた。

「ちょいと。洗濯屋の婆さんを知らないかい。運河の角の。大工の女房もさ。三日も顔を見てないんだよ」

 係は瓶を渡す手を止めずに、にこやかに頷いた。

「院で、お預かりしております」

「預かるって、何をさ」

「お身体を。ご心配には及びません、おかみさん」

 係の声はよく通るのに、少しも大きくならなかった。次の瓶が、次の手に渡る。マーラの問いは、列の後ろへ流されていった。

 お預かり。魚を預かるなら、氷に乗せる。人を、何に乗せて預かるっていうのさ。

 桶の前へ戻ると、天幕から触れ声がした。

「空いた瓶は、院へお返しくださいまし。薬とお引き換えいたします。咳の薬でも、熱の薬でも」

 その声の方へ、通りがかったヨナスの足が半歩ずれた。治癒院へ荷を運びに行く途中の弟は、姉の包んだ昼の弁当を左手に提げている。右の手は、握る力がまだ戻りきらない。

「ヨナス。そっちじゃないよ。治癒院は橋の向こうだろ」

「薬。姉ちゃん、薬」

「薬なら治癒院の棚にうなるほどあるよ。回り道しな」

 春の終わり、あの瓶を一口飲んだ晩から、弟は姉を母ちゃんと呼び、魚屋の人と呼んだ。夏の大祭の翌朝、やっと姉の名を思い出した。それきり一度も間違えない。間違えないうちに、あの列から遠ざけておく。

「行きな。荷が待ってる」

 ヨナスは列を一度だけ振り返り、それから橋の方へ歩いていった。

 気がつくと、マーラは通りがかりの若い男に「鯖、一尾で銅貨一枚」と言っていた。まけた覚えはない。口が勝手に、大工の女房が値切り終えたあとの値を言ったのだ。

 若い男が目を丸くした。

「言った値は引っ込めないよ。持っていきな」


 昼の鐘が鳴るころには、氷は朝の半分も残っていなかった。

 桶の前に、妙な客が立った。

 すり切れた灰色の外套。肩には、水場の労役で使う天秤棒と空の桶が二つ。両手は赤く荒れているのに、背筋だけが、王宮の廊下でも歩いているみたいにまっすぐだった。

 ついこのあいだまで、王宮で女官たちの上に立っていた女官長だ。解任されて、下町の水場で桶を運ぶ労役に回された、と市場じゅうの噂になった。

 女は、鯖の桶をしばらく黙って眺めていた。

「ずいぶんと艶のよい背をしておいでですこと。お顔の方は、少々お疲れのようですけれど」

 魚の顔のことだと分かるまで、マーラは一拍かかった。

「疲れてんのは、昼まで売れ残ってるからさ。朝はぴんぴんしてたよ」

「そちらのお魚は、おいく……」

 言いかけて、女は外套の隠しを指で押さえた。

「……いえ。買うとは申しておりませんわ。伺っただけですこと」

「銅貨二枚。訊いたんなら帰りな、奥さん。列の方が只だよ」

 追い返したつもりだった。女は帰らなかった。天秤棒を下ろし、桶の鯖を、宝石箱の中身でも値踏みするみたいに見下ろしている。

「並べ方が、いけませんわ」

 断りもなく、荒れた指が鯖を一尾ずつ起こした。背の青を外へ、腹の銀を内へ。頭の向きを揃え、氷の欠片を間に挟んで、晩餐の卓の銀器のように一列に並べ直す。

 通りがかりの女が足を止めた。二尾買っていった。次の客も、一尾。

「……王宮じゃ、魚まで並べてたのかい」

「王宮で三十年、卓を整えてまいりましたの。お魚は初めてですけれど」

 マーラは桶の隅から、尻尾の欠けた鯖と、売り物にならない鰈の縁側を掴み、古い紙にくるんだ。

「持っていきな。手間賃だよ」

「手間賃。……わたくし、生まれて初めて頂戴いたしますわ」

 女の荒れた手が、包みに伸びた。

 そのとき、天幕の方から係の触れ声が流れてきた。

「清い水でございます。北の契約官様の、呪われた印の水とは違います。お子様にも、どうぞ安心してお飲ませくださいまし」

 包みの上で、女の手が止まった。

 指の先から、すうっと血の色が引いていく。顔もだ。女は天幕の方を振り向き、王宮言葉の飾りを全部落とした声で、一言だけ漏らした。

「……帳面係さん、が?」

 ちょうめんがかり。王宮の言葉は、魚屋には分からない。

 よっぽど疲れてるんだね、とマーラは思った。王宮の暮らしに慣れた身体は、労役じゃ持たないんだろう。

 女は我に返ったように包みを受け取り、胸に抱えた。礼の代わりに、こう言った。

「お魚屋さん。包み方がたいへんお上手ですこと。紙が少々生臭いのを、除けば」

「魚屋の紙だよ。花の匂いがしたら、そっちの方を疑いな」

 空の桶を二つ揺らして、女は水場の方へ帰っていった。礼も詫びもないまま、肩の天秤棒だけは少しも傾かなかった。

 鯖を並べ直したのが元女官長だなんて、市場の誰に言っても信じやしないだろう。マーラは鼻を鳴らして、残りの鯖に氷を寄せた。


 夕方、店の裏で売り上げの銅貨を板の上に並べていると、勝手口からヨナスが戻ってきた。

 左手に、青い瓶を一本提げている。

 マーラの手から、銅貨が一枚転げ落ちた。

「……飲んでないだろうね」

「飲んでない。拾った。戸口で、拾った」

「誰の戸口だい」

「鰻の。鰻の爺さん」

 うちでは鰻しか買わない、元船頭の爺さんだ。運河の出口を、今じゃ誰も覚えていない古い名で呼ぶ。人の名も舟の名も、誰より忘れない爺さんだった。

 その戸口に、あの青い瓶が落ちていた。

「戸は」

「開いてた。誰も、いない。……誰も」

 瓶は空ではなかった。底の方で、青い水が少しだけ揺れている。栓は抜けたまま、口の縁が乾いていた。

「おかみさん」

 裏の路地から、声がした。今朝、天幕の下で婆さんたちの行方をはぐらかした、あの係だった。肩から提げた袋の中で、空き瓶同士が触れ合って、かちかちと鳴っている。

「空き瓶をお持ちでしたら、院でお引き取りいたします。お薬とお引き換えに」

 マーラは、まだ畳んでいない魚の包み紙を一枚掴んだ。ヨナスの手から瓶を取り、ぐるぐるとくるむ。

「これは、あたしの売れ残りだよ。薬じゃない。その袋に入れるんじゃないよ」

「おかみさん。それは院の瓶でございます」

「包んであるのは魚屋の紙だろ。中身も魚屋のもんだよ」

 係は笑った。困った子どもを見るような、丁寧な笑い方だった。それが、いちばん癪に障った。

「鰻の爺さんは、どこにいるのさ」

 係は袋を肩に掛け直し、朝と同じ声で答えた。

「院で、お預かりしております」

 それだけ言って頭を下げ、かちかちと瓶を鳴らしながら、路地を運河の方へ帰っていく。

 路地の向こうで、どこかの戸が閉まる音がした。

 マーラは包みを抱えて台所へ入り、棚の奥、塩壺の後ろへ押し込んだ。

「姉ちゃん。洗う?」

「いい」

 洗って返すことはしなかった。

 裏へ戻って、板の上の銅貨を数え直した。初めから、何度も数えた。何度目かでやっと、今朝まけたぶんだけ足りないのが分かった。損をしたのはそれだけだ。それだけのはずだった。

 毎週一尾だけ鰻を買っていく元船頭のフーゴが、もう二度、来ていなかった。

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