父は、院の紙に署名しない
「蜂蜜は、入れるのか」
客として座るのは初めてのエルンスト家の応接間で、父はリディアの顔より先に茶器を見ていた。縁の小さな欠けを、親指でさりげなく隠している。
客に出す器が、欠けたまま出てくる。それだけで、この家の今が少し分かってしまう。
「いただきます。蜂蜜は、あとで」
壺から掬われた匙が一本、リディアの皿の端に置かれた。
昨日届いた手紙は、院の者が明日来る、お前も来なさい、の一行だけだった。院の客の席に、父が娘を呼んだことはない。だから今日は、父の隣に座りに来た。
「院からは、どなたが」
「昼過ぎだ」
父は茶を一口飲み、窓の外へ目をやった。門の脇に、北の黒い馬車が停まっている。
アレクシスは玄関で父に会うなり、こう言ったのだった。
「エルンスト伯。塀が二か所崩れている。先に言っておく」
「……公爵殿は、わざわざそれを言いに参られたのか」
「外を見てくる。ガルドと二人で」
客に開口一番で家の傷みを言われるなど、この家の歴史にもなかったことだろう。父の口ひげは、怒るべきか礼を言うべきか決めかねて、しばらく揺れていた。
「院の手当が、止まった」
父はそれだけ言って、茶器を置いた。
「お前が務めを放り出した、その月にだ。この家は、それで……いや、よい」
要点の手前で、いつものように言葉が切れる。父の目が、また窓の外の馬車へ行った。
「北の公爵殿の家に置かれて、口のきき方まで北風になったか。前のお前は、わしが話すあいだ黙って聞いておった」
「今日、私が答えています」
父の眉が上がった。
そこで止まればよかった。止まらなかった。
「手当は、院が私の右手を使う代金でした。私が辞めれば止まるのは当たり前です」
「門の前に公爵家の馬車を置かれては、近所が何と言う」
「塀が崩れている、と言うでしょうね。それは馬車のせいではありません」
「婚約を破られた娘が、男の馬車で出入りなど」
「雇い主の馬車です。賃金もいただいております。この家からは一度も出なかった額を」
「家名に、泥を」
「泥でしたら、院の手当をいただいていたころから、ずっとこの家の靴の裏に付いておりました」
父が黙った。
勝った、と思ったのは一瞬だった。次の瞬間には、院の者が来る前に父と揃えておくはずの言葉が、一つも残っていなかった。
蜂蜜の匙は、使われないまま皿へ戻っていた。
蜂蜜を入れ損ねた茶は、ただ苦かった。
ばか。院の前で父の隣に座りに来たんでしょう、私は。
戸が叩かれ、アレクシスが入ってきた。黒い外套の肩に、裏庭の落ち葉が一枚乗っている。
「裏の倉の前に轍がある。新しい。エルンスト伯、倉を開けてほしい」
父の頬から、口論の赤みがすっと引いた。
倉の錠は一つだった。父が鍵を回し、アレクシスが重い戸を引いた。
「おう、こりゃあ」
ガルドが口笛を吹きかけて、途中でやめた。
青い瓶の箱が、天井まで積まれていた。どの箱の板にも院の焼き印がある。隙間から覗く瓶の青が、薄暗い倉の中で、井戸の底の水みたいに光っていた。
アレクシスは黙って奥まで歩き、戻ってきた。
「百二十箱」
「……家賃が、よかったのだ」
父は言い切った。言い切ってから、自分の声を他人の声のように聞いて、口を閉じた。
「左様でございますか、お父様。たいへん結構なお家賃でございましたでしょう。塀を直すほどには、お届きにならなかったようでございますけれど」
広場に立った七日のあいだ、低地の路地で見た男がいた。院が只で配った青い瓶の水を、飲みつづけていた男だ。隣で薪を割る弟を呼ぼうとして、口を開けたまま、何も出てこなかった。弟の方が先に、俺だよ兄さん、と笑ってやっていた。
あの男の瓶と同じ青が、自分の生まれた家の倉に、天井まで積んである。
「閣下、割るか」
ガルドが箱の角に手を掛けた。
「院の荷だ。今日は数えただけでいい」
「数えただけで帰れってのかよ。……伯爵、足元だ。段がある。嬢ちゃんは、外の風に当たれ。顔が白いぞ」
ガルドは父の肘を取って、先に母屋へ戻っていった。父の背は、来たときより一回り小さく見えた。
倉の戸口に、二人だけが残った。
アレクシスが、彼女の顔を見た。
「あなたが言い過ぎたぶんは、私が言ったことにしていい」
「アレクシス様が口の悪い方だと、父に思われますよ」
「塀の件で、もう思われている」
笑ってしまった。院の瓶の青い光の前で笑うのはひどく不謹慎だったが、肩に入っていた力が一つ抜けた。
昼を過ぎて、白い幌の馬車が門の前に着いた。北の黒い馬車の隣に、わざとのように並べて。
手紙の言っていた院の者は、副監のギーゼラだった。手袋の指先で、北の馬車の幌を一度なでてから門をくぐった。後ろには書箱を抱えた若い書記が一人、口を結んでついてきた。
「倉のお荷物を検めに来ただけよ、お嬢さん。そんな顔をなさらないで」
検めは、書記が倉を一回りしただけで済んだ。応接間の卓に戻ると、書記が一枚の紙を広げた。下の方に、署名の欄が空いている。
「伯爵様。ここに一筆いただければ、証文は全部帳消しになるのよ。相談役のお手当も元どおり。お屋敷の手入れだって、思いのままでしょう? どちらがお得か、伯爵様なら、わたしより早くお数えになれるわね」
父の指が、卓の縁を小さく叩いていた。
「それにね、伯爵様。近ごろ、朝はお手が冷えません? 院の地下も、このところ毎晩少しずつ寒くなっているの。伯爵様のお名前一つで、ずいぶん温まるのだけれど」
甘い声のままだった。
リディアの右手の白い痕が、きしむように痛んだ。茶器を置こうとして、受け皿の縁に当たり、硬い音が鳴った。
「あら。お嬢さん、お顔の色が」
リディアは茶器から手を離し、膝の上で指を組んだ。この問いの答えは、自分の口から出すものではない。
父は娘の顔を見た。それから、紙を見た。
時計の振り子が、何度も行って戻った。書記の筆の先から、インクが一滴、壺へ落ちた。ギーゼラは急かさない。手袋の指を揃えて、待っている。
父は、茶器の欠けを隠していた親指を外した。
「……断る。わしの名は、もう貸さん」
言ったのは、確かに父だった。
言ってから、父はギーゼラではなく、卓の上の何もない所を見ていた。隣の誰かが言ったのを、たまたま聞いてしまったような顔だった。
ギーゼラは驚かなかった。
「そう」
手袋の指で署名の紙を書記の方へ押し戻し、代わりに懐から別の一枚を出して、卓に伏せて置いた。
「じゃあ、これだけ置いていくわね。お返事は、霜が降りるまででいいのよ。霜が降りたら、院の地下はもっと寒くなるでしょう?」
白い幌の馬車が門を出ていった。
リディアは伏せられた紙を取り、裏返さずに袖へしまった。あとで読む。今ここで読めば、父の前でまた何か言い過ぎる。
父が立ち上がった。
「来い」
リディアは慌てて後を追った。
階段を上がり、二階の廊下を突き当たりまで。父は母の部屋の戸の前に立ち、真鍮の取っ手に手を置いた。置いただけで、回さなかった。
「開けると書いたのは、わしだ」
取っ手の上で、父の指が白くなっていた。
「書いたあとで、院の使いが来おった。お前が王都に戻った日だ。娘をこの部屋に入れるな、と。入れれば、証文を商人に戻す、と」
あの日、門から出ていった院の馬車だ。
「家には、入れた。今日、わしの名も貸さなんだ。……この戸まで開けたら、次は何を取られるか、わしには数えきれん」
父は取っ手から手を離し、鍵穴を背中で塞いだ。
院は、この戸の向こうの何を、そこまでほしがるのか。
「……疲れた」
父は娘の横をすり抜け、階段を下りていった。閉じた戸の前に、リディアだけが残った。
宿へ戻る馬車の中で、アレクシスが灯りを彼女の膝の方へ寄せた。
リディアは袖から紙を出し、ようやく裏返した。
ギーゼラの置いていった紙には、父の署名と、見たことのない家の紋があった。




