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王太子、自分の足で村へ

 ユリウスは、救援の荷車の車輪を、自分の肩で泥から押し出していた。

 王都を発って三日目の朝。あの女は今ごろ王都の西のどこかにいると聞く。こちらは北の街道で、評議に命じられた償いの荷――パンと毛布と薪――を、王太子自ら率いて運んでいる。行き先は、偽の印で村人が名を失っていたという、あの村だった。

 村の屋根が坂の上に見えたところで、二台目の荷車が車軸まで沈んだ。兵は二人とも先の荷車に取りついている。御者は手綱で塞がっている。

 三人が、黙ってこちらを見た。

「……押せば、よいのだろう。押せば」

 肩を荷台の角に当てた。靴がくるぶしまで泥に呑まれ、車輪が半分回って戻る。もう一度。回りきった拍子に、膝から前へ倒れた。

 立ち上がると、外套は胸から裾まで土色だった。

 懐の口上の紙が、湿っている。王家は民を忘れてはおらぬ――と、馬車の中で十度は書き直した文だ。広場でこれを読めば、民の目に、今度こそ王家の光が見えるはずだった。

 この外套で、読むのか。

「殿下。日のあるうちに、着きます」

 御者が、それだけ言って手綱を揺すった。


 村の広場には、誰もいなかった。

 井戸のまわりの戸は、どれも閉まっている。窓の板の隙間から、いくつもの目がこちらを見ていた。

 兵が、荷台からパンの袋を一つ下ろした。焼いてから三日目の、少し固くなった匂いが、乾いた秋の風に混じった。

「村の者は、どうしたのだ。王家の救援が着いたのだぞ。出てこぬということが、あるか。あるまい」

 声は乾いた広場に落ちて、それきりだった。

 やがて、井戸のそばの一軒の戸が開いた。前掛けをした母親が一人、出てきた。後ろに、まだ小さな息子がくっついている。息子の手首には何の痕もなかった。母親の目だけが、まだ少し腫れていた。

 ユリウスは懐から口上の紙を出した。

「そこの女。村の者を、ここへ集めたまえ。今すぐ――」

 言いかけて、紙から目を上げた。母親は動かなかった。命じられた顔ではなく、命じる者を待っている顔をしていた。

 ユリウスは、汚れた紙を持ち直した。

「……集めて、もらえまいか。口上を、聞かせたいのだ」

 兵がパンの袋を差し出した。母親は、袋を見た。それから、受け取るために出しかけた両手を、前掛けの上で組み直した。

「殿下じゃなくて、あの人を寄越してください」

 閉じていた戸が、一つ、また一つと開いた。出てきた村人たちは、ユリウスの方を見ずに、母親の後ろで黙って頷いた。

「割れてねえ印は偽物だって、街道じゃもう、荷運びの子どもでも知ってますよ」

 年かさの男が、それだけ言った。

 あの人。

 ユリウスは、ひと呼吸遅れて、それが誰か分かった。

 割れた印を持つ女。この村の井戸端で、母親に夜通し子の名を呼ばせて、男の子一人を取り戻したという女。祝宴の夜、自分が大広間じゅうに聞こえるように、帳面係と呼んだ女。

 顔に、血が上った。頬の泥のせいで、誰にも見えなかったはずだ。

 口上の紙には、王家の光、と三度書いてあった。三度とも、喉の手前で止まった。

 外套の裾を、小さな手が引いた。さっきの男の子だった。

「ねえ。北の契約官様は、来ないの?」

 袋ではなく、ユリウスの顔を見上げていた。

 答えはどこにもなかった。来る、とも、来ない、とも言えない。彼女が今どこで何をしているのかさえ、自分は聞いた話でしか知らない。

「……荷を下ろす。納屋は、どこだ」

 兵に向けて言った。言ってから、自分がいちばん先に、荷台のパンの袋へ手を伸ばしていた。


 夕方の納屋には、藁と、湿った土の匂いがこもっていた。

 村人は誰も手を貸しに来なかったが、追い返しにも来なかった。毛布を積み、薪を積み、パンの袋を梁の下に並べる。袋はどれも、思っていたより重かった。

 これで終わる。荷を空にして、この村を出られる。

「殿下。こいつは、どうします」

 年若い方の兵が、荷車の隅の藁を掻き分けていた。

 出てきたのは、板の木箱が一つだった。蓋の隙間から、青い硝子の首がいくつも覗いている。箱の横腹に、札が打ちつけてあった。祝福院寄進。清めの水。

「出がけに院の方から、ご寄進だって積まれたやつで。目録には入ってないそうです。このまま置いてきゃ、済みますが」

 兵は、どちらでもいいという顔で、箱の縁に手を掛けていた。瓶の青は、下町の水場で見たのと同じ色だった。

 ――院が配ってる青い瓶の水。あれ、飲むんじゃないよ。

 水番の初日、下町の水場で、魚屋の女に言われた。なぜだと訊くと、弟が飲んで姉の名を忘れたのだと返された。北の村の話と似ている、とも。

 そのときは、院の水が民に害をなすはずがあるまい、と思った。

 院の寄進だ。今も、同じ文が頭に浮かんだ。浮かんだのに、喉がそれを声にしなかった。

 この村の人間は、院の印が押された水の紙に名を書いて、家の者の名を言えなくなった。その村に、院の水を置いていく。

 納屋の外で、昼の男の子が、別の子と何か言い合って笑っていた。今夜、この箱の瓶はあの家々の卓に並ぶ。王家の救援の顔をして。

 ユリウスは、箱の前に立ったまま、泥の乾きかけた指を握った。

「積み戻せ」

「は」

「荷車へ。積み戻せ」

 兵は一度だけ瞬きをして、箱を抱え上げた。瓶が触れ合って、かちりと鳴った。御者が、何も言わずに荷台の藁を均して場所を空けた。

「殿下。王都に着いたら、こいつはどこへ下ろします」

 箱を積み終えた兵が、藁を払いながら訊いた。

「……私の馬車の後ろへ置け。誰にも渡すな」

 兵は、はい、とだけ言って、荷台の箱に縄をかけた。

 それきりだった。

 理由を訊く者はいなかった。よく気がつかれました、と言う者も、さすがは殿下、と言う者もいなかった。兵は次の薪を運び、御者は馬に水をやり、外の子どもたちは笑い続けていた。

 なぜ、誰も何も言わないのだ。

 苛立って、それから、自分がなぜ苛立つのかも説明できないことに、また苛立った。口上の紙を出して、裏に何か書こうとした。何を書けばいいのか、分からなかった。


 村を出たのは、日が落ちる少し前だった。

 夕方の井戸端で、子どもたちが輪になって唄っていた。節は聞き慣れないのに、同じ一つの呼び名だけが、何度も繰り返される。桶を提げた父親が、輪の外でそれを聞いていた。袖口から覗く手首の灰色の痕は、乾きかけた墨のように縁がぼやけ、薄れかけていた。

 何の唄だ、と訊きかけて、やめた。訊けば、また、あの人の名が出るのだろう。

 荷車が広場を横切るとき、井戸のそばの戸口に、あの母親が立っていた。見送りではない。こちらには目もくれず、両手を口に当てて、通りの向こうへ声を張っていた。

 息子の名だった。

 通りの端で別の子とじゃれていた男の子が、一度で振り向いた。泥の跳ねた裸足のまま、まっすぐ母親の前掛けへ駆けていく。

 母親は、駆けこんできた頭を胸に押しつけて、もう一度、今度は小さな声で同じ名を言った。それから家の中へ入れた。

 戸が閉まった。

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