小川一本ぶんの水
村の入口の杭に、リディアの名を書いた紙が釘で打ちつけてあった。
雨に濡れて乾いたらしく、墨が滲んでいる。名の下には、慣れない手で、もう一行。この名を呼ぶな。
王都から西へ馬車で一日、小川のほとりの屋根の低い村だった。番所で運び屋が口にした村と、フィンが預かった束の宛先が、ここで重なる。
呼ぶなと書かれた当人が、呼ばれもしないのに来ているわけだ。まあ、杭に打たれるくらいなら、礼儀正しい方だと思う。
井戸の前に、人が集まっていた。その向こうで、子どもが四、五人、手毬をつきながら唄っている。言葉は聞き取れず、節だけが耳に残った。
鍬を担いだ若者が、杭の方へ顎をしゃくった。
「割れてねえ印は偽物だって、もう聞いてる。あれは、剥がすのを忘れてただけだ」
詫びる声ではなかった。けれど、泥は飛んでこない。
若者の手首に、灰色の細い痕が糸のように巻きついていた。桶を提げた娘にも、赤ん坊を抱いた女にも。字の書ける若い者から順に、書かされたのだろう。
「名前は返してほしい。けど、井戸は置いてってくれよ」
人垣の奥の声に、頷く頭がいくつも続いた。偽の印の紙でも、汲める水は本物だった。
リディアは井戸の縁に指を置いた。石の底から、銀の糸が一本、まっすぐ東へ伸びている。王都の方角だ。この線が地の下の水を汲み上げ、その揺れを、署名した若い者たちの身体に落としている。名を戻せば、線が外れる。外れれば、水は止まる。
村の裏から、細い水音がしていた。浅くて、それでも途切れない音だった。
北の白鹿川でも、夏の大祭の夜の運河でも、見てきた。人が毎日その名で呼んでいる川なら、揺れを受けてくれる。井戸の揺れを先に小川に受けさせれば、名を戻しても水は止まらない。
だから最初に要るのは、川の名だ。
「皆様。裏の小川を、普段は何とお呼びでございますか」
「裏の川だろ」
「うちは溝って言ってる」
「用水だ。親父がそう呼んでた」
「院の役人は、七番って言ってたな」
四人が四通りに答えて、互いの顔を見た。契約書の写しでは、この川は用水の七番と番号で書かれている。
一本の名を大勢の口が呼んでいなければ、川は振り向かない。それでも、いちばん多い呼び方に賭けるしかなかった。賭けには、よく負ける。知っているのが、せめてもの取り柄だ。
「夕方、岸で、裏の川と呼んでいただけますか。できるだけ大勢で」
ガルドが、人垣と井戸のあいだに黙って立っていた。
「嬢ちゃん。それで駄目なら、どうすんだ」
「駄目なら、岸で考えます」
小川は、跨げば越えられるほどの幅だった。
日が落ちると、水は黒くなった。リディアは岸に膝をつき、右の指を水に入れた。冷たさが手首の白い痕まで一息に上ってくる。
岸の大人たちが、裏の川、と声を揃えた。揃ったのは最初の一声だけで、二声目からは、溝、用水、と口々に崩れていく。
井戸の銀の糸をたぐり、その名で川へ結ぶ。
白い筋が走りかけて、指一本ぶんのところで、ぱきりと割れた。
「ご自分の呼び方で構いません。もう一度、皆様で」
声は増えた。増えたぶん、ばらばらだった。筋は、半分も行かずに割れた。
割れたあとも、指を水から抜けなかった。
水の底の糸が、まだ震えている。細かく、拍を刻むように。たん、たた、たん。どこかで聞いた拍だった。
顔を上げると、岸の少し下手で、子どもたちが手毬をついていた。昼に井戸の向こうで聞いた、あの唄だ。糸は、その節に合わせて震えていた。
大人には、端から訊いて回った。子どもには、一人も訊いていない。
リディアは濡れた手のまま立ち、手毬を抱えた女の子の前にしゃがんだ。
「この川を、皆さんは何と呼んでいるのですか」
女の子は、手毬と川とこちらの顔を順に見た。
「蛍の川。唄にあるもん」
「では、その唄を、頭から聞かせてくださいませ」
「ほうたる、ほうたる、蛍の川の。ひとつ、ふたつ……」
そこで声が途切れた。後ろの男の子たちも顔を見合わせる。
「続き、知らねえ。いっつも、そこで毬落とすもん」
くつくつと、低い笑い声がした。
切り株に腰掛けた年寄りの女だった。背中が丸く、膝の上に、色の褪せた手毬を一つ載せている。
「みっつで、おかえり。……そこまでつけた子は、わしが嫁に来てから、一人もおらんだに」
喉の奥で、笑いが一つ、ころりと鳴った。こらえきれずに、声になった。大人を端から訪ねているあいだ、答えはずっと、手毬と一緒に岸を転がっていたのだ。
「負けました。お婆様、続きを、頭からもう一度だけ唄ってくださいませ」
「ゆっくりでいいだに。毬は、落としてもいい」
女の目が、一度だけ岸の上へ動いた。外套の背の高い男が、子どもたちの空の桶を両手に四つずつ提げて、井戸の方へ運んでいくところだった。女は目を細めた。
ほうたる、ほうたる、蛍の川の。ひとつ、ふたつ、みっつで、おかえり。
しわがれた細い声が、毬の拍に乗って、岸を一度通っていった。
リディアはもう一度、水に指を入れ、いま聞いた節のまま、自分の口で重ねた。
「……みっつで、おかえり」
最後の一節を結び目にして、蛍の川へ、結ぶ。
黒い水面を、白い霜の筋が一本、まっすぐに走った。
上流の闇から、下流の闇まで。冬の湖に氷が張るときのような、長い、長いきしみが、足もとの土を伝ってきた。筋は割れなかった。
井戸の方で、桶の落ちる水音がした。止まらない音だった。
下手で、毬の音がまた始まった。今度は、みっつまで落ちなかった。
その夜、リディアは家々を回った。街道の村では、夜通し何人もの声を重ねて、やっと一人だった。ここでは母親が二度か三度呼ぶだけで、手首の灰色の痕が、濡れた結び紐を引いたときのように、するりとほどけた。
一軒目の息子が最初に言ったのは、「……腹、減った」だった。母親は泣きながら笑い出して、鍋の蓋を取り落とした。胸の真ん中が、ぎゅっと詰まった。
戸口の外で、ガルドが腕を組んでいた。
「腹減った、だとよ。いちばんいい知らせだろうが」
「はい。いちばん、よい知らせでございます」
ガルドは腹をさすりながら、次の家へ薪を足しに入った。
その背中の向こうで、アレクシスが待っていた。
「残りは十一軒だ」
「はい。夜のうちに回ります」
「三軒ごとに、右手は私の外套の内だ」
「それは、どなたのお得になる取り決めでございますか」
「私だ」
四軒目の前で、外套の内側に右手を入れられた。毛織りの裏地に、彼の体温が溜まっていた。取り決めを結んだ覚えはない。けれど、外套から手を抜くのは、もう少し先でいい。
最後の家の母親が、椀を一つ差し出した。湯気の立つ麦の粥だった。リディアは両手で受け取り、飲み干した。
同じ夜、村で最後の名が戻ったころ。王都の院長室で、院長は帳面に書きつけをしていた。
右手が、ふいにペンを握っていられなくなった。ペンは机の端を転がって床に落ち、墨が一滴散った。
院長は手袋の指を握ろうとした。指は、半分までしか曲がらなかった。
院長は身を屈め、左手でペンを拾った。そのまま続きを書き始めた。字は、ひどく傾いていた。
村には二晩残った。
最初の朝、リディアは街道の村へ短い手紙を託した。子どもの唄を探してくださいませ。地の下の水にも、きっと名がございます。
井戸は水を上げ続け、子どもたちは岸で手毬をついていた。
発つ朝、入口の杭の前に、年寄りの女が立っていた。曲がった指で釘を揺すって抜き、滲んだ紙を四つに畳んだ。
「これは、もう、焚きつけだに」
女はそれを自分の懐に入れて、ゆったり笑った。
四日目の夕方、王都の宿へ戻った。
宿の卓に、封書が一通載っていた。
封蝋はエルンストの家のもの。開くと、宛名も、時候の挨拶もない。父の字だった。一度書きかけた行が線で消してあり、その下に書き直してあった。
「明日、院の者が来る。お前も来なさい」




