↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
92/103

ひびを描き足した偽印

 王都に着いたその日の夕方、リディアは宿に荷を置くなり、坂を一つ上った。

 家へ来い。母の部屋を、開ける。街道の村まで追ってきた父の二行は、外套の内に入れてある。

 エルンスト家の門は、閉まっていた。坂の途中で足をゆるめたのは、その門が内から開いたからだ。

 出てきたのは、院の紋を扉に付けた馬車だった。窓の布は下りたままで、中の顔は見えない。馬車は坂を下り、リディアの脇をすれすれに抜けて、運河の方へ消えた。

 門は、また閉まった。格子の向こうの石段にも、玄関の戸口にも、誰も出てこなかった。

 三歩後ろで、アレクシスが石畳に目を落としていた。

「轍が門の内まで入っている。まだ濡れている」

 手紙で娘を呼んだ家の門から、院が出てきた。順番を、覚えておこう。

 格子に手をかけかけて、やめた。院の馬車を見送ったばかりの家だ。今日叩いても、父はあの戸を開けない気がした。けれど院の紙の束は、門の外を回っている。そちらなら、明日から手が届く。


「割れていない印は、偽物です」

 リディアの声が低地の広場に落ちると、彼女を罵りに来た人々が、罵る顔のまま口を閉じた。

 閉じたのは、ほんの一呼吸だけだった。

 樽を伏せた台の上で、菓子屋の缶を開ける。銀の二片をつまみ、割れ口を合わせ、朱をつけて紙に押した。

 持ち上げた紙を、人垣へ向けて高く掲げる。家の名の字の上を、白い割れの線が一本、斜めに走っていた。

「私の印は、冬の終わりの夜に割れました。割れた印からは、この線のない朱は出ません。皆様の紙に線がなければ、それは私が押したものではございません」

「うまいこと言うじゃないか!」

「うちの婆さんは、印があるから大丈夫だって言われて名前を書いたんだ!」

「字なんか読めねえよ。凍えたのはこっちだ!」

 前の方の男が泥を掴んだ。投げるより早く、黒い外套が台の前に出た。泥は鈍い音を立てて、アレクシスの胸に当たった。二つ目は肩に。

 リディアは身を屈め、彼の袖を引いた。

「アレクシス様。お下がりくださいませ。顔を見せるのが、今日の私の仕事です」

「では、泥は私の仕事だ」

「そういうお話では」

「あなたの顔が見えていれば足りる。私の外套は、見えなくていい」

 袖を引いた指の方が、すごすごと戻ってきた。

 言い返す文句が、三つ浮かんで三つとも負けた。悔しい。悔しいのに、胸の奥のどこかが、焼きたての皮みたいにふくらんでいる。

 四つ目は、飛んでこなかった。投げかけた男の腕を、隣の洗濯女が黙って下ろさせていた。

 ふと運河の方を見ると、水車小屋の戸口に、桶を提げた金髪の男が立っていた。リディアは、見なかったことにした。


 広場に立ち続けて、七日目の夕方だった。

 三日目から何も飛んでこなくなり、五日目には、自分の契約書を持って見せに来る人が出た。

 その日は、運河沿いの水場に立った。紙の束を抱えた男が、早足で列の脇へ入ってきた。噂の束の運び屋だと、誰かが小声で言った。

 男はリディアに気づくと、逃げるどころか、束の一枚を抜いて頭の上に突き上げた。

「ほら、見な! ひびがある。本物だ!」

 列がざわめいた。夕日を受けた朱の中に、確かに白いひびが一本、斜めに入っている。

 指先が冷えた。あれだけ大勢の前で押してみせたのだ。写し取る暇は、いくらでもあった。

 水槽の縁に白い一枚を広げる。二片を合わせて、押す。

「では、私の紙をお持ちくださいませ。ご自分の紙と重ねて、夕日に透かしていただけますか」

「重ねりゃ同じだって、皆に見せてやるよ」

 男は二枚の角を揃えて、高く掲げた。

 右下の欠けの角は、一分の狂いもなく重なった。人垣から、ほう、と声が漏れた。

 その真ん中で、二本の白い線が、ばらばらの向きに伸びて、交わっていた。

「逆です」

 リディアが言ったのは、それだけだった。

 男の腕は、上がったまま動かなかった。下ろせば認めることになり、掲げていれば皆に見られる。夕日の中で、紙の上の小さな十字だけが、くっきりと明るい。

「……十字になってるよ」

 洗濯女の腰にしがみついていた、まだ字を習っていない小さな女の子が、指をさして言った。それが合図になった。洗濯女が、魚屋が、腰の曲がった年寄りが、口々に同じことを言い始めた。

「七日で描き足したにしては、よくできております。向きのほかは」

 男の顔から、血の色が抜けていった。走り出そうとした肩を、横から太い腕が掴んだ。

「どこ行くんだよ。列なら最後尾だろうが」

 ガルドは男の両腕を背中でまとめて、片手で持った。

 人垣の後ろから、記録の見習いのフィンが帳面を抱えて駆け出してきた。

「そ、その束は、証拠として、法廷でお預かりします。十一、いえ、十二枚です、エルンスト様。透かした二枚は別に挟みます。……順番、これで合ってますよね」

「合っています」

 フィンの指は震えていたのに、挟んだ紙の角は一つもずれていなかった。


 運び屋は、アレクシスの手で街の番所へ渡された。

 束は頭巾の男が置いていった、顔は見ていない、と男は言った。言えたのは、配って回った村の名だけだった。王都の西へ一日、小川のほとりの村。それと、配りきれなかった束と朱の壺が、まだ家の床下にある。

「明朝、番所の者と家を改める」

 番所の石段を下りたところで、右手を取られた。水槽の縁へ何度も手をついていたのを、見られていたらしい。

 彼は前を向いたまま、宿までの角を三つ曲がった。手を引けば負けで、引かなくても負けで、どちらにしても、温かかった。


 夜半、低地の方角で鐘が鳴った。

 運河の向こうの空が、下から橙色に染まっていた。床下に束が残っていると聞いた家の方だった。

 燃えていたのは、やはり運び屋の家だった。家の者は、亭主を迎えに番所へ来ていて無事だった。

 アレクシスが風上へ回り、焦げた戸板のそばで一度だけ息を吸った。

「油だ。戸口に撒いてある」


 明け方、焼け跡に立った。

 床下の束は、どれがどれか分からない灰の山になっていた。朱の壺も、熱で割れて、灰の底に沈んでいる。

 戸口の敷居の前の灰は、夜露を吸って柔らかかった。

 そこに、丸い穴が一つ開いていた。指一本ほどの深さ。縁に、細い輪が一重。右の縁だけが、わずかに浅い。

 背中が、内側からすうっと冷えた。

 北の街道の朝靄の中で、ガルドを振りほどいて馬に飛び乗った男は、最後まで杖を手放さなかった。私たちが村で印を押し比べていたあいだに、あの杖は、もう王都へ戻っていたのだ。

 そして昨夜、この戸口に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。