王太子殿下、下町の水番になる
「大胆で、思いきりがよくて、いかにも王家の方らしい結び目ですこと。――ほどけるための」
王太子ユリウスの手の中で、桶の縄がまたするりと抜けた。水番の初日、日の出からいくらも経っていない。宮廷の外套の裾は、もう運河の泥で黒い。
水車が汲み上げた水を、石の水槽から桶で配り、配った数を帳面につける。宰相に言い渡された務めは、それだけだった。
隣で同じ桶を扱っているのは、元女官長のコルネリアだ。王宮を追われ、下町の労役に回されたと聞いている。絹の袖を肘までたくし上げ、髪だけは高く結ったまま、縄を二度くぐらせて引く。桶はびくともしない。
構わない。結び目など、下々の手仕事だ。王太子が民の水場に立った、それで務めは果たされる。昼までに済ませて、丘の上の王宮へ帰ればいい。
「列を、前へ。順に桶を受け取りたまえ」
声は、よく通った。
誰も動かなかった。
列の先頭の洗濯女は、ユリウスではなくコルネリアの手もとを見ていた。コルネリアが結び終えた桶を顎で示すと、女はそれを抱えて歩き出した。次の男も、その次も。列は彼の横を素通りして回り始めた。
「待ちたまえ。帳面に、まだ」
王太子の前で、膝を折る者は一人もいない。かわりに、後ろの方で舌打ちが一つ鳴った。
「女官長。結び方を、私に示したまえ」
「もう女官長ではございませんのに、今もそうお呼びくださるなんて、殿下は本当にお優しいこと。お名前でお呼びいただけたことは、ついぞございませんでしたけれど」
コルネリアは手を止めなかった。指が速すぎて、縄をどちらへくぐらせたのかさえ、ユリウスには追えなかった。
見よう見まねで、二度くぐらせる。引く。今度は抜けなかった。
腰を落として、縄の根もとを握る。春の朝、この水場で覚えた持ち方だけは、体が忘れていなかった。桶は胸の高さまで、素直に上がった。
水を満たした桶を提げて、ユリウスは列の方を向いた。
受け取りに来る手は、なかった。洗濯女も魚売りも、空の桶を提げて、コルネリアの前に並んでいる。
「たいへんお上手にお持ちですこと。どなたにお渡しになるのか、決めておいでなら、なおよろしゅうございますけれど」
列の端で、紙の束を小脇に抱えた男が、殿下、と口の中で繰り返して、面白そうに笑った。
ユリウスは桶を水槽の縁に下ろし、聞こえないふりをした。
昼になると、列は長くなった。
結ぶのはもうコルネリアがまとめて引き受け、ユリウスは帳面に数を書くだけになっていた。
「殿下のお字は、のびやかで、堂々として、罫などまるでお目に入らないのね。帳面が、お気の毒」
聞かないことにした。列の噂も、同じように。それでも、耳には入る。
「判決のあと、王家は馬まで売ったってさ」
「それより北の街道の話。井戸の水を飲んだ村の者が、家族の名前を忘れてくんだって。北の契約官の印で上がった水だよ」
帳面の字が、罫を一つはみ出した。
北の契約官。名を言われなくても、誰のことかは分かる。
冬の終わりの祝宴で、ユリウスは杯を掲げて言ったのだ。帳面係はいらない、と。栗色の頭が一度だけ下がり、灰青の裾が扉の向こうへ消えた。その瞬間、大広間の段の上の灯が、音もなく消えた。暗がりで誰かが笑いかけて、飲み込んだ。あの音を、彼はまだ耳の奥に持っている。
彼女の印で、村が凍える。あれは、そういうことをする女だ。
――する、のだろうか。
「兄さん、桶。こっちにも」
その呼び方に、肩のほうが先に強ばった。
振り向くと、前掛けに鱗を光らせた女が、腰に手を当てて立っていた。春の終わり、この水場でずぶ濡れになった彼に、その袖で台を拭いていけと言った魚屋だ。顔が熱くなったのは、日が高くなったせいではない。
「……あのときの、魚屋か」
「覚えてたのかい。なら話が早いや。春の汲み直しの手間賃、まだだよ」
女は桶を受け取ると、顎で彼の手もとを指した。
「今朝は、ちゃんと腰から持ってたね。結び目は、まだまだだけど」
それから、声を落とした。
「それとさ。院が配ってる青い瓶の水。あれ、飲むんじゃないよ」
「なぜだ。院の水が、民に害をなすはずがあるまい」
「うちの弟が飲んだの。あたしの顔見て、母ちゃん、って呼んだんだよ。姉の名前が、大祭の明くる朝まで出てこなかった」
女は桶を抱え直した。
「北の村の話と、似てるだろ。だから、飲むな」
彼女は水の重さなどないように、列の向こうへ戻っていった。言い返そうとしたユリウスの言葉は、濡れた石畳の上で行き場をなくした。
院の水でも、名を忘れる。では、村の井戸は。
噂の印は、本当に彼女の印なのか。
知りたい、と思った。そう思ったことに、ユリウスは少し驚いた。
夕方、水車の音がゆっくりになった。
コルネリアは桶を逆さに伏せて積み、縄を輪に巻いて一本ずつ掛けていった。最後の一本を掛け終えると、泥のついた手の甲を見下ろして、黙った。爪のあいだに詰まった泥を、もう片方の爪で掻き出そうとして、途中でやめた。
ユリウスが閉じかけた帳面を、コルネリアが脇から覗いた。
「数だけは、合っておりますのね。のびやかなお字で、ちゃんと。本日いちばんのお手柄ですこと」
褒められたのか、刺されたのか。ユリウスは帳面を閉じた。どちらにしても、今日、彼の手が仕上げたのは、それ一冊きりだった。
濡れた裾を絞る。これで丘へ帰れる。湯を使い、乾いた靴を履き、父上に今日の務めを――何と申し上げるかは、坂の途中で考えればいい。
水場の出口には、まだ人垣が残っていた。
その切れ目を、二人連れが通り過ぎていった。黒い外套の、背の高い男。並んで歩く、栗色の髪をきつくまとめた女。
女は前を見て歩いていた。男の方が半歩、こちら側に寄っていた。水場の泥はねが、女の裾へ届かない位置だった。
人垣が閉じて、二人は見えなくなった。
ユリウスは、足を止めたままでいた。
その脇を、紙の束を抱えた男が早足で抜けた。肩がぶつかり、束の上から一枚が滑って、濡れた石畳に張りついた。
拾ったのは、考えるより先だった。
水の契約書だった。並んだ村人の名の下に、契約官の印の欄がある。そこに、朱の印影が押してあった。縁の飾り。家の名を彫った細い字。エルンスト。
彼女の家の名だ。それは読める。
けれど、これが彼女の印なのかどうかは、分からなかった。
六年、宴のたびに隣の席にいた。杯を受け、皿を受け、楽士の曲が変わるたびに、その横顔へ何か言った。
濡れた紙が、握った親指の下で皺になった。
「おっと。そいつは預かりもんで」
男が引き返してきて、紙をひったくった。朝、列の端で笑っていた顔だった。皺を掌で伸ばしながら、泥まみれの宮廷の装いを、上から下まで一度だけ眺める。
「噂の、北の契約官の印ですよ。……殿下でも、見たことないんで?」




