三十七本の古い線
空の水杯を持ち上げただけで、縁が受皿へ三度触れた。
夏第4月第8日、第3鐘。王都治癒院の検査室で、リディアは水杯を置き、医療確認の同意範囲を読んだ。見るのは今の震え、見当識、検査を止める基準。旧線を使うか、どれほど公共効果があるかを医療者が決める欄はなかった。
「今日の日付と、ここへ来た道を言えますか」
「夏第4月第8日。水利監視廊から、東回廊を徒歩で」
医療者は返答時刻を記し、両手の震えと脈を測った。リディアが親指を他の指の下へ隠すと、その動きも現在症状へ入れた。永久障害の有無や発症時期を埋める票は、机に出されなかった。
次に、医療者は木片を三つ並べ、指示した順で裏返すよう求めた。二つ目でリディアの爪が縁を滑り、木片が机の外へ落ちる。拾おうとした彼女を止め、現在の震えとして落下回数だけを医療票へ足した。
「線へ触れた時の限界を決められますか」
「今ここで止める基準は決められます。永久に残るかは答えられません」
医療者は水杯を満たさず、検査を終えるまで空のまま置いた。リディアは現在票を読み、技術試験への同意とは別の署名を返した。
第4鐘前、隣の旧線試験架では、技術評価者二人が別の同意票を受け取った。実運用から切り離された架に、三十七本の旧契約線と七幹線の切断痕が縮尺どおり並んでいる。医療票は持ち込まれず、二人はM12の旧署名痕へ試験具を近づけ、応答までの時刻と現在負荷だけを測った。
一本目の針は半鐘より前に振れ、三十七本目までの遅れを加えても一鐘を越えなかった。現在の逆流を抑え始める速さは、三つの案の中で最も高い。
二人目の評価者は別の測定具で同じ旧痕を読み、最初の値との差を余白へ残した。完全に一致しなくても、遅い方の上限が一鐘の内側に収まる。彼は急性区画の水位札を見て、単独案を候補から外すことへ反対した。
「速さを隠せば、拒む人へも嘘になります」
「旧痕は生きています。ただし、過去の本人安全域より現在負荷が上です。接続直後の震え、混乱、本人側への逆流は起こりやすい。永久に残るか、いつ出るか、戻るかは、この症例数では決められません」
ローヴェンは技術票の公開範囲と時刻を確かめた。医療者の票、技術者二人の評価、監査票は別の挟みに入り、区域側立会人もリディアの身体欄へ印を置かなかった。
区域側立会人は、自分の区画で閉じた共同井戸の札を一枚だけ机へ置いた。旧線が効き始めても、その井戸の割れた管は人が取り替える必要がある。彼が確認したのは、単独案と混成案のどちらが区域へ何を残すかまでだった。
本人説明室の長机には、三案が同じ六つの欄で並んだ。対象、効き始め、人、設備、失敗、救えない物。リディアは単独旧線、四系統混成、現在の手動縮退を、欄から外さず読んだ。
単独旧線は一鐘以内に効き始める。三十七本の旧署名痕へリディア一人を戻し、現地の物理班は別に要る。閉じた井戸、割れた管、足りない薬、既に失われた在庫までは戻らない。接続を始めれば、症状が出る前にも古い責任構造と負荷の一部が本人へ戻る。
技術評価者が救える可能性のある区画へ札を置くたび、リディアは遅れる鐘を数えた。自分の手を守るために、他人の水を遅らせるのか。空の水杯へ伸ばした指先が縮んだ。
四系統混成は、中央蓄積石の放出後二時間半から三時間半を使い、四組が普通筆と物理部品で仮線を作る。三系統は暗いまま、手動配水と荷車へ落とす。途中で人や部品が足りず、四灯も安定しない可能性が残った。
現在の手動縮退を続ければ、身体接続は要らない。その代わり、圧の上昇へ水桶と人手が追いつかず、閉鎖区画と不足する低順位が増える。どの案にも、救えない物の欄があった。
区域側立会人は共同井戸の札を単独案の「救えない物」へ移した。
「単独なら、間に合う場所があります」
リディアが言うと、技術評価者は頷いた。アレクシスはヴァルハルト提供部品の札を握り、椅子の背から一歩出た。
「やめろ」
部屋の全員が動きを止めた。リディアは彼を見上げる。
「私の身体を決める権限は、あなたにありません」
アレクシスの口が一度閉じた。握った資源札の角が掌の中で曲がる。
「今のは命令だ。撤回する」
彼は札を机へ戻した。
「間に合わない鐘と、君がこの椅子から立てなくなることの、どちらも怖い」
「怖いから止めたい、と言っているのですか」
「そうだ。君の代わりに決められるからではない」
折れた資源札を、アレクシスは平らに直そうとしなかった。ヴァルハルトが出せる人員と部品の上限は、その曲がった札の数字のまま混成案へ残る。
リディアは返事を急がなかった。空の水杯へ手を伸ばすと、指先はまだ震えている。受皿から持ち上げず、本人欄のある票を自分の前へ引いた。
一鐘以内の技術票を左に、現在症状だけの医療票を右に置く。どちらにも、彼女の代わりに署名する場所はない。区域側立会人とローヴェンは椅子を一歩下げ、本人欄の前を空けた。
「許可は求めません。私は、この線へ戻りません」
本人拒否の欄へ姓名と第5鐘前の時刻を書いた。接続数は零。単独案の技術票には無効印を押さず、一鐘以内の実効を残したまま、採用欄だけが本人拒否で閉じられた。
技術評価者は単独案の紙を比較資料の棚へ戻した。ローヴェンは、強制がなかったことと、接続が始まっていないことだけを監査票へ記した。
リディアは紙を破らず、椅子の肘へ一度手を置いた。震える膝へ重さを移し、自分の足で立つ。試験架の受け口には固定具だけが残り、三十七本の古い線は一本も接続されなかった。




