西井戸の一刻
二度目の報酬袋を鞄へ入れたあと、リディアは公務の出口と反対側へ曲がった。春第3月第8日、第4鐘。白鹿の中間成果物は、ヴァルハルトとルメリアの受理係が別々に受け取った。測定表の範囲と引継ぎ時刻に不足がないことを確かめ、各契約から六銀貨ずつ、計十二枚がリディア本人名の二袋へ入った。
受渡し所の正面には共同宿舎へ戻る道がある。彼女が並んだのは裏手の民事転送窓口で、前には靴職人の見積書と、離れて暮らす姉妹の手紙が一通ずつ待っていた。
「公務便では送りませんか」
窓口係が宛名を見て尋ねた。公務便なら追加の小銭は要らず、今の集配にも間に合う。
「本人費用でお願いします。返事も、こちらの私書箱へ」
リディアは私費の小銭を皿へ置いた。通知には、翌第9日の第4鐘から第5鐘まで、西井戸脇の公開休憩所、と書いた。護衛、贈物、送迎を求める欄は空白にし、話すのは現在の生活と、今後会う意思、住む場所まで。白鹿の地図、批准、報酬を持ち込む欄には線を引いた。
宛名を書き終えた手が、封の手前で止まった。呼べば来ると分かっている相手を、自分から呼ぶのは初めてだった。リディアは公務印のない封へ本人印を押し、乾くまで指を添えた。
封を閉じる前に、末尾へ期限を加えた。第9日第5鐘を第1暦日、夏第4月第20日第5鐘を第42暦日とする。その後を何も書かず、リディアは封を窓口係へ渡した。
翌第9日、第4鐘。西井戸の滑車には、昼の最後の水桶が掛かっていた。
リディアは共同宿舎から歩いて来た。アレクシスも城馬車を使わず、井戸の反対側から一人で現れた。二人の間にある屋根付き休憩所には長椅子が二つあり、井戸番は第5鐘に鎖を掛けると最初に告げた。
アレクシスは何も持っていなかった。リディアが座るまで手を伸ばさず、向かいの長椅子へ腰を下ろす。
「通知を受け取った」
「来ると決めたのは、あなたですか」
「そうだ。受領返答も私が出した」
井戸の桶が石縁へ上がり、水を汲みに来た女が二人の前を通った。アレクシスはその足音が離れるまで待った。
「次に会う日が決まっている生活がほしい」
「決まっていない日は、会わなくてもですか」
アレクシスはすぐに答えなかった。井戸番が綱を巻く音を一周聞いてから、膝の上で片手を開く。
「会いたいとは思う。だが、その度に道を変えて声を掛ければ、前と同じになる」
「会う間隔は、先に決めますか」
「一週に一度では少ない」
「白鹿へ出る週もあります。回数を先に埋めれば、仕事の同席を面会に数える日が出ます」
アレクシスは手帳を開いたが、六週間分の空欄へ線を引かなかった。
「では、一度会った日に次を決める。決まらなければ、会いに行かない」
「その形なら試せます」
「毎日、城でですか」
「毎日でなくていい。だが、いずれ同じ家へ戻るなら、城の空き部屋を——」
リディアの指が長椅子の縁から外れた。立ちかけた膝が卓板へ触れ、木の水染みが揺れる。
「わたしの帰る部屋を、空き部屋と呼ばないでください」
アレクシスの右手がわずかに上がり、彼女との間を越えずに膝へ戻った。指先が外套の布を一度だけつまむ。
「雇用も婚姻もない間は、わたしの名で借りた部屋へ帰ります。誰かの家へ入って、仕事と帰る場所を一度に預けたくありません」
「では、私はそこを訪ねられないまま、どうやって同じ家の話をする」
「今は答えを持っていません」
リディアは腰を戻した。長椅子の縁へ指を掛け直しても、さきほどより一人分、端へ寄っていた。
アレクシスは井戸桶から落ちる水を見た。石縁を伝った一筋が、彼の靴の前で止まった。
「悪い道を帰った日のことを、その日のうちに話したい。食事が冷めても、言い損ねたことを次の公務まで置きたくない」
「そのための部屋を、先に城と決めないでください」
「決めない。だが、訪ねられない家でよいとも、まだ言えない」
「今の共同宿舎は、第30日の夜で終わります。その先の部屋は、まだ決めていません」
「なら、決まる前に話したい」
「部屋を決めるのは、わたしです」
「分かっている。知らせてほしいと言っている」
リディアは返事を急がなかった。城へ戻るとも、住所を必ず知らせるとも言わず、次の面会で話す項目に住居を残した。
井戸番が空の桶を引き上げ、第5鐘前の鎖を柱から外した。輪の一つが石へ当たり、乾いた音がした。
リディアは通知の本人控えを卓へ置いた。第42暦日の夏第4月第20日第5鐘で線が止まり、その先に更新印はなかった。
「第20日まで、会った日に次を決めたいです。決められなければ、会いに行きません」
「分かった」
「明朝、私は利益相反を申告します」
「私も、自分の窓口へ出す」
アレクシスは自分の手帳へ翌朝の受理口を書き、リディアは本人控えを鞄へ戻した。
第5鐘が鳴り、井戸番が休憩所の鎖を柱へ回した。アレクシスは北側の出口へ、リディアは共同宿舎へ続く出口へ立った。
角を曲がる前に、リディアが振り返る。
「次は第16日。城と執務室以外の場所を、今度はあなたが一つ選んでください」
アレクシスは長椅子の横で頷いた。井戸番が鎖を掛け終える前に、リディアは共同宿舎側の道へ曲がった。




