濡れた染め布
水番が止水楔へ手を掛けるより先に、濡れた袖がその手首を押し戻した。
春第2月第24日、第4鐘。第1鐘に城下を発ったリディアが白鹿下沢へ着くと、三染色工房の共同代理は染め桶の縁へ身体を寄せていた。水の中には、春物の布が十二反沈んでいる。
「止めるなら、十二反を先に買って」
「流量を見る半刻だけだ」
「半刻を越えたら、今日の便は十四枚です」
代理は水番の手を放してから、濡らさないよう腹巻きの内側に入れていた注文票を開いた。納期欄には、半刻を越えた遅延一便につき十四銀貨とある。売上でも染め直し代でもなく、遅れた時だけ発生する違約欄だった。
桶の向こうでは、工房の二人が布端を竹へ巻いていた。片方が今月の賃金日を尋ねると、代理はこの便が着いた翌日だと答える。注文票を閉じても、水番の手首から自分の袖を退けなかった。
開始票を持つ下沢の当番取水吏はいない。工房から停止へ同意した票もなく、水番の板には開始鐘も終了鐘も書かれていなかった。
「楔から手を離してください」
リディアの測定表には、半刻停止後の戻り流量を記す欄が三つ用意してあった。ここで止めれば、批准前に欲しかった数字は取れる。彼女は表を膝へ押し当て、開始欄へ横線を引いた。
水番は濡れた木から指を退けた。布は同じ水の中にあり、流れも止まっていない。十二反に損傷はなく、注文票の十四枚にも発生印は押されなかった。
その朝、軍議庫使番が運んだD-2は、ヨハンと対岸水番の二鍵で派生図箱へ入っていた。受領B-24-1には第24日の時刻があり、別冊H-20は独立監査局の携行係が持ったままだった。箱の隣では、工房枝水路の開始票を掛ける鉤だけが空いていた。
リディアたちは止水試験を取りやめ、既存の流量棒を水路の外から読むだけにした。注文主の名も染料の配合も尋ねず、濡れた代理が示した一便の欄だけを技術表の対象外へ写した。
水番は三つの空欄を見て、批准へ出す値が減ったと言った。リディアは埋め合わせの推計を書かず、外から読めた朝昼二本の目盛だけを残した。
第25日から第27日まで、両岸水番小屋の床には施設札が一枚ずつ増えた。
ヴァルハルト側は白鹿峠分水門、ルメリア側は白鹿下沢分水標。保守班は四人ずつで、巻き棒、導水杭、止水柵を同じ鐘に測る。共同費の板には百二十銀貨とあり、中央で線を引いた左右へ六十ずつの負担札が置かれた。
リディアは三工房にも同じ測定札を渡す案を出していた。工房代理は受け取らず、まだ水の跡が残る袖を台へ置いた。
「うちの荷は、この二つの門を直しても先には運ばれない。止められる日と帳簿だけ増えるなら、六十枚の外でいい」
レオンハルトは、春物の共同荷を値引きする支持封を出した。代理は封蝋を爪で剥がし、十二反の荷札へ戻す。
「共同荷からも降ります。今ある国内便で運びます」
彼は剥がれた跡へ親指を当てたが、支持を条件に参加を迫らなかった。下流最低水量を得るための推薦は続ける、と水番へだけ告げる。
「支持がなければ、会計席は六十枚を戻すかもしれません」
「戻せば、始められない。それでも工房の印を借りて三席へ出すよりはいい」
レオンハルトは十二反の値引き欄を自分の試算から消した。下流最低水量の欄だけを残し、試行中の不行使期間を九十日より長くしないよう書き直す。
施設札の端には、低地犠牲放流水門も置かれていた。領会計吏の控えには、フリーダの種麦、倉、畑に未払欄が残っている。白鹿の百二十枚からその欄へ線を引こうとした書記を、会計吏は定規で止めた。
「これは保守の箱です。済んでいない補償を入れれば、どちらの残りも分からなくなります」
放流水門の札は参加列へ移らず、四十五日見直しまでの保留台へ戻った。三工房と、札のない第三地域は非参加欄へ置かれ、費用、試行データ、優先停止の三欄を空白にした。
第27日第3鐘、境界の仮合意台へ残ったのは二施設だけだった。
アレクシスはヴァルハルト側の推薦欄へ、レオンハルトはルメリア側へ頭文字を置いた。受理係はその二文字の上へ「国内批准への回付用」と刻んだ細札を重ね、発効時刻の欄を開けたままにする。
D-2は仮合意台へ持ち出さず、二鍵箱の中で使用期間の札だけを付け替えた。アレクシスが原図へ戻す案を口にすると、ヨハンは泥の付いた事故票A-21-1を箱の横へ置いた。
「近道より、次に輪を曲げない方を先に決めてくれ」
アレクシスは原図の語を続けず、派生図の同時開鍵欄へ頭文字を置いた。原図の閲覧者も、リディアの署名権も増えなかった。
リディアの技術意見番号は測定表の端にあったが、仮合意の署名欄にはなかった。基金の箱も空で、作業開始札は裏返ったままだった。
「取水席には、恒久放棄ではなく九十日の不行使として出します」
レオンハルトは自分の控えを閉じた。
「保守席と会計席が拒めば」
「始まらない。私の頭文字で、三席分にはしません」
第4鐘、彼は通常国境便L-27へ一人で乗った。便札には翌第28日第4鐘の下沢政庁着があり、リディアの帰路札とは別だった。春第3月第4日、境界へ戻った到着控えには、推薦書を三席回付箱へ置いた時刻だけがあり、批准欄は空いていた。リディアは同日第5鐘まで測定表を水番へ引き継ぎ、第5日第1鐘の別便で発って、第4鐘に城下の帰着札を受けた。
リディアが境界で最後に見た共同荷置場では、傷んでいない十二反が三工房の荷車へ積み終わっていた。代理は濡れた袖を絞り、剥がした支持封をレオンハルトへ返さず、自分の注文票に挟んだ。
荷車が動くと、工房の二人は布を覆う油布の端を押さえた。共同測定具を積む空きは残っていたが、代理はそこへ自分たちの染料桶を載せた。




