表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/71

救えた命、戻らない指

トーマが最初に尋ねたのは、痛みが消えるかではなかった。


「三本なら、手綱を持てますか」


外科医ルッツは、答える前に右手を見た。腫れた掌。色の戻らない薬指と小指。温めた布を替えても、二本だけは冷たい。


「物を挟むことはできるようになる。今までと同じ速さで二頭を御せるとは約束できない」


「残す方を試したら」


「五本とも残るかもしれない。掌まで失うかもしれない」


「死ぬことも?」


「ある」


倉庫の隅で、ミナが灰根の瓶を握った。止血液を打ち消す反転薬は、もう用意している。


「師匠の帳面に、血が戻った例があります」


「潰れた指で?」

トーマに聞かれ、ミナはすぐに答えられなかった。


「切り傷です。深い切り傷で、色が」


「俺のは、潰れてる」


「反転薬で止めすぎた分を戻せば、少なくとも薬のせいは」


ミナの声が早くなる。瓶を握る指が白くなり、目はトーマより、帳面の投薬欄へ戻っていた。


リディアにも似た考えがあった。不完全な治癒線で血の戻る道を支えれば、薬の反転と重なって二本を救えるかもしれない。王都なら、もっと強い祈りを通せた。セレスティアの光があれば。


「測定だけ、させてください」

リディアはトーマへ説明した。


「身体を変える線ではありません。手首から先へ、いま通っている流れを映します。嫌ならしません」


「見れば、決められる?」


「分からないことが増えるかもしれません」

トーマはしばらく考え、左手で頷くように毛布を叩いた。


「やって」


銀筆を寝台へ触れない位置で動かす。ルッツが脈を取る場所、ミナが皮膚の温度を確かめた場所、怪我のない中指を基準にして、細い測定線を開いた。中指までは淡い赤が通った。


薬指の付け根で線が散る。小指はさらに手前で途切れた。


反転薬が戻せるのは、薬が狭めた分だけだった。荷車と石に潰された血管も、裂けた組織も作り直さない。リディアは銀筆を置いた。


「二本を元へ戻す線は、引けません」

ミナが唇を噛む。


「でも、試さなければ」


「試すのは俺だ」


トーマの声は大きくなかった。ミナは瓶から手を離した。


「もし残す方を選んで、悪くなったら。切るのは二本で済みますか」

ルッツは首を振った。


「約束できない」


「今なら?」


「薬指と小指。傷を見て広げる可能性はあるが、掌を残せる見込みは高い」


倉庫の外に、トーマの革手袋が干してあった。右だけが血と泥で固まり、薬指と小指の部分は石に擦れて裂けている。


「あれを」


エッダが外から取ってきた。寝台の脇へ置くと、トーマは左手で手袋を裏返し、掌の内側を見た。手綱が当たる場所だけ、革が白く薄い。


「この二本を切ってください」


ルッツはもう一度、処置の内容、出血、感染、残る痛みを話した。トーマは途中で一度だけ水を求め、最後まで聞いた。署名は左手で書いた。名前の後半が上へ曲がった。


ミナは単独処置を止められている。薬を手渡す時は瓶の印を声に出し、ルッツが確認し、エッダが時刻を記録した。


リディアは治癒線を水場と火床へつないだ。刃を清める湯、布、灯り。できるのはそこまでだった。衝立の向こうで、ルッツがトーマへ合図を求めた。


返事があった。


リディアは銀筆の先から目を上げなかった。途中で血が足りなくなり、ガルドの部下から適合する者を二人調べた。一人目の血は合わず、二人目のオルドが袖をまくった。


「今朝、車体を支えた腕だぞ」

ガルドが言うと、オルドは横になったまま答えた。


「今は街道より、こっちの穴を塞いでください」


軽口のあと、顔を壁へ向けた。針を見たくないらしい。日が傾くころ、ルッツが衝立を開けた。


トーマは眠っていた。右手には厚い布が巻かれ、三本の指先だけが外へ出ている。色はある。脈も触れる。


「今夜が最初の山だ。熱と匂いを見ろ。痛みを勝手に我慢させるな」


ミナは指示を帳面へ書いた。その下に、自分が濃い止血液を先に使ったことを書き直す。出血を抑え、外科医まで命をつないだ。薬指と小指の循環を悪くした。


ミナは二つの文を書き終え、医療記録へ署名した。リディアは同じ紙の契約線監督欄へ名を置いた。アレクシスも領の責任記録へ印を押す。目を覚ましたトーマは、右手を持ち上げようとして止められた。


エッダが、助かった馬は飼葉を食べたと伝える。

「荷車は?」


「車軸が折れた」


「そう」


トーマは枕元の手袋を見た。エッダが持ち帰ろうとすると、置いておいてくれと言った。夕刻、ガルドが事故現場から戻った。泥のついた警告灯を、机へ置く。


「坂が崩れる前に点くはずの灯です」


硝子は割れていない。油も残っている。芯だけが、事故の時刻には冷えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ