救えた命、戻らない指
トーマが最初に尋ねたのは、痛みが消えるかではなかった。
「三本なら、手綱を持てますか」
外科医ルッツは、答える前に右手を見た。腫れた掌。色の戻らない薬指と小指。温めた布を替えても、二本だけは冷たい。
「物を挟むことはできるようになる。今までと同じ速さで二頭を御せるとは約束できない」
「残す方を試したら」
「五本とも残るかもしれない。掌まで失うかもしれない」
「死ぬことも?」
「ある」
倉庫の隅で、ミナが灰根の瓶を握った。止血液を打ち消す反転薬は、もう用意している。
「師匠の帳面に、血が戻った例があります」
「潰れた指で?」
トーマに聞かれ、ミナはすぐに答えられなかった。
「切り傷です。深い切り傷で、色が」
「俺のは、潰れてる」
「反転薬で止めすぎた分を戻せば、少なくとも薬のせいは」
ミナの声が早くなる。瓶を握る指が白くなり、目はトーマより、帳面の投薬欄へ戻っていた。
リディアにも似た考えがあった。不完全な治癒線で血の戻る道を支えれば、薬の反転と重なって二本を救えるかもしれない。王都なら、もっと強い祈りを通せた。セレスティアの光があれば。
「測定だけ、させてください」
リディアはトーマへ説明した。
「身体を変える線ではありません。手首から先へ、いま通っている流れを映します。嫌ならしません」
「見れば、決められる?」
「分からないことが増えるかもしれません」
トーマはしばらく考え、左手で頷くように毛布を叩いた。
「やって」
銀筆を寝台へ触れない位置で動かす。ルッツが脈を取る場所、ミナが皮膚の温度を確かめた場所、怪我のない中指を基準にして、細い測定線を開いた。中指までは淡い赤が通った。
薬指の付け根で線が散る。小指はさらに手前で途切れた。
反転薬が戻せるのは、薬が狭めた分だけだった。荷車と石に潰された血管も、裂けた組織も作り直さない。リディアは銀筆を置いた。
「二本を元へ戻す線は、引けません」
ミナが唇を噛む。
「でも、試さなければ」
「試すのは俺だ」
トーマの声は大きくなかった。ミナは瓶から手を離した。
「もし残す方を選んで、悪くなったら。切るのは二本で済みますか」
ルッツは首を振った。
「約束できない」
「今なら?」
「薬指と小指。傷を見て広げる可能性はあるが、掌を残せる見込みは高い」
倉庫の外に、トーマの革手袋が干してあった。右だけが血と泥で固まり、薬指と小指の部分は石に擦れて裂けている。
「あれを」
エッダが外から取ってきた。寝台の脇へ置くと、トーマは左手で手袋を裏返し、掌の内側を見た。手綱が当たる場所だけ、革が白く薄い。
「この二本を切ってください」
ルッツはもう一度、処置の内容、出血、感染、残る痛みを話した。トーマは途中で一度だけ水を求め、最後まで聞いた。署名は左手で書いた。名前の後半が上へ曲がった。
ミナは単独処置を止められている。薬を手渡す時は瓶の印を声に出し、ルッツが確認し、エッダが時刻を記録した。
リディアは治癒線を水場と火床へつないだ。刃を清める湯、布、灯り。できるのはそこまでだった。衝立の向こうで、ルッツがトーマへ合図を求めた。
返事があった。
リディアは銀筆の先から目を上げなかった。途中で血が足りなくなり、ガルドの部下から適合する者を二人調べた。一人目の血は合わず、二人目のオルドが袖をまくった。
「今朝、車体を支えた腕だぞ」
ガルドが言うと、オルドは横になったまま答えた。
「今は街道より、こっちの穴を塞いでください」
軽口のあと、顔を壁へ向けた。針を見たくないらしい。日が傾くころ、ルッツが衝立を開けた。
トーマは眠っていた。右手には厚い布が巻かれ、三本の指先だけが外へ出ている。色はある。脈も触れる。
「今夜が最初の山だ。熱と匂いを見ろ。痛みを勝手に我慢させるな」
ミナは指示を帳面へ書いた。その下に、自分が濃い止血液を先に使ったことを書き直す。出血を抑え、外科医まで命をつないだ。薬指と小指の循環を悪くした。
ミナは二つの文を書き終え、医療記録へ署名した。リディアは同じ紙の契約線監督欄へ名を置いた。アレクシスも領の責任記録へ印を押す。目を覚ましたトーマは、右手を持ち上げようとして止められた。
エッダが、助かった馬は飼葉を食べたと伝える。
「荷車は?」
「車軸が折れた」
「そう」
トーマは枕元の手袋を見た。エッダが持ち帰ろうとすると、置いておいてくれと言った。夕刻、ガルドが事故現場から戻った。泥のついた警告灯を、机へ置く。
「坂が崩れる前に点くはずの灯です」
硝子は割れていない。油も残っている。芯だけが、事故の時刻には冷えていた。




