治癒所のない領地
横倒しの荷馬車の下から、トーマは右手だけを抜けなかった。
水樽は割れ、坂に細い流れを作っていた。馬は轅から外され、鼻梁を擦りむいただけで立っている。荷台の脇では、同乗していた二人が頭と肩を押さえて座っていた。トーマの顔からは、もう痛みの色が引き始めていた。
「眠るな」
ガルドが左頬を叩く。返事はある。けれど声が遠い。リディアは車体へ手を掛けようとした。
「持ち上げるのは六人でやります」
ガルドが止めた。彼は集まった者を名で割り振った。
「オルドとヤンは後輪。ルカ、ヨナス、エルク、ハインは荷台。エッダ、本人へ声を。合図は俺が出す」
木材を差し込み、車体をわずかに浮かせる。右手の下へ噛んだ石を外し、トーマの身体を毛布へ滑らせた。薬師見習いのミナが坂を駆け上がってきた。
まだ少女に見えるほど小柄だったが、血を見て足を止めなかった。トーマの手へ布を巻き、脈を取り、肩から指先までを順に触れる。
「右の薬指と小指が冷たい。掌の出血が止まりません」
「外科医は」
「北詰所です。早馬でも戻るのは昼前」
アレクシスはガルドへ早馬を命じた。古い薪倉庫を空け、寝台と湯を用意させる。領内に、人をすぐ運べる治癒所はなかった。
「トーマ。聞こえますか」
エッダが呼ぶと、若い御者は目を開けた。
「馬は」
「立ってる。あんたより元気だよ」
口元が少し動いた。次に、自分の右手を見ようとして首を起こす。
「見せて」
ミナは布を外さなかった。
「倉庫へ運んでから」
「俺の手だ」
ミナの指が止まった。布の端を少し持ち上げる。中指までは色が戻り始めている。薬指と小指は白く、爪の下だけが暗い。
トーマは一度見て、目を閉じた。
「運んで」
四人が毛布の端を持った。
薪倉庫には、寝台が三つしかなかった。桶を退け、壊れた車輪を壁へ寄せ、窓から吹く風を板で塞ぐ。水路から届いたばかりの清水を煮沸する間にも、床へ血が落ちた。ミナは作業台で黒い瓶を開けた。
「灰根の止血液を使います」
「外科医の指示は」
「待てません。薄い濃度なら、出血を」
答えながら、彼女は瓶の口を見ていた。何かを数えるように唇が動く。
リディアは投薬の判断ができない。銀筆で血管を作ることも、潰れた肉を元へ戻すこともできない。
「今から使う分を、時刻と濃度と一緒に記録してください」
ミナは動かなかった。
「ミナさん」
「もう使いました」
煮沸桶に当たっていた杓の音が止まった。
「坂で、最初の布を巻いた時に。出血が多かったから、原液に近いものを」
「誰の許可で」
アレクシスの声が低くなる。
ミナは作業台の下から、布で包んだ帳面を出した。
「ありません」
見開きには、トーマの名、事故の時刻、脈、出血、使った瓶の印が書かれていた。最後の行だけ、まだ濡れている。
「先生の帳面には、潰れた傷へ濃い灰根を使うなとあります。血を止めすぎて、先が死ぬことがある。でも、あのままでは外科医が来る前に」
「だから隠した?」
「隠すなら、書きません」
ミナは帳面をトーマの寝台脇へ置いた。指だけが、表紙からなかなか離れなかった。
出血は弱まっている。その代わり、二本の指はさらに冷たくなっていた。アレクシスは帳面を閉じなかった。
「今から単独での投薬を止める」
ミナの顎が上がった。
「手を止めたら、この人は悪くなります」
「追い出すとは言っていない。身体所見はあなたが取る。薬を使う時は、本人へ説明し、別の者が瓶と時刻を読む。契約線の操作はリディア。記録者を一人置く」
「正式な薬師は、ここにいません」
「だから正式な薬師がいないまま一人に任せてきた責任は、領にある。あなたの無許可と同じ頁に書く」
ミナの資格審査は、この処置を外部の薬師が検証するまで延期する。二十四時間以内に帳面と瓶を北詰所へ提出することも、アレクシスは同じ頁へ書かせた。ミナは反論を飲み込み、トーマの呼吸へ戻った。
リディアは倉庫に残る古い補助線を調べた。アレクシスが管理札へ、水場、火床、寝台に限る一日分の起動許可を書いた。リディアはその三つへ届く細い経路だけを開く。身体へ直接つなぐ線は引かない。
「トーマさん。温めた布を腕の付け根へ置きます。傷へは触れません」
本人の返事を待ち、ミナが布を置く。別の兵が瓶の印と時刻を声に出し、エッダが記録した。作業は遅くなった。
昼前、北詰所から外科医が着いた。ルッツと名乗った男は、挨拶より先にミナの帳面を読み、トーマの肘、手首、指の順に触れた。
針で皮膚へ触れるたび、トーマはどこまで感じるかを答えた。薬指と小指では、二度とも返事が遅れた。ルッツは灰根の瓶を嗅ぎ、リディアへではなく、トーマへ椅子を向けた。
「選べるのは二つだ」
ミナが口を挟もうとしたが、外科医は手を上げた。
「本人へ話す」
「反転薬と補助線で血を戻す処置を試す。うまくいけば二本を残せるかもしれない。悪くすれば、腐りが掌へ広がる」
トーマの左手が、寝台の毛布を掴んだ。
「もう一つは」
「薬指と小指を今切る。元へは戻らない。だが、残る三本と命を守れる見込みは上がる」
倉庫の外で、助かった馬が一度だけ鼻を鳴らした。
トーマはその音を聞きながら、自分の右手から目を逸らさなかった。




