泥の中の最初の契約
白石集落のヘニングは、割れた導水石より先に、アレクシスの長靴を見た。
泥は膝まで跳ねている。領主が自分で水路へ入ったことは、それで分かったはずだった。それでも、石工は頭を下げなかった。
「石は出しません」
白石集落の作業小屋には、交換できる大きさの切石が二枚あった。どちらも藁と木枠で守られ、春の補修用と墨書されている。南井戸から上ってきたエッダが、鍵束を鳴らした。
「下では、もう夕方の分を配り始めてる。夜明けに空になるよ」
「去年の春も、夏も、秋も同じことを言った」
ヘニングは作業台の下から、細長い木札を六本出した。すべて公爵家の印があり、その脇に支払延期と彫られている。
「石を切れ。水路を見ろ。荷車は下の者が出す。終われば手当を払う。六回やって、六回とも後だ」
「城の台帳には、支払済みと」
リディアが言いかけると、ヘニングは木札を彼女の前へ並べた。
「では、台帳を飲ませてやってください」
エッダが笑わなかった。清水が足りないことと、上流が無償で働かされたことは、どちらも事実だった。
蹄の音が近づき、城から呼び寄せた会計吏が革箱を抱えて入ってきた。机へ広げた支出台帳には、六回分の修繕石と運搬手当が、たしかに支払済みと記されている。
受領印だけが、すべて同じだった。
ヘニングの印ではない。アレクシスは会計吏へ目を向けた。
「誰が受領した」
「前代官です。集落への振り分けは代官所が」
「私の家の印で支払済みになっている」
会計吏の声が止まった。
アレクシスは木札を一枚取り、台帳の受領印と並べた。
「白石への債務だ。今夜の作業分を加え、六回分すべて公爵家から支払う。前代官から取り戻せるかは、あなた方には関係がない」
「約束は、もう六本あります」
「七本目にはしない」
アレクシスは旅費箱を開かせ、その場で一回分の石代と今夜の作業賃を数えた。残りは支払日ごとに公爵家の直轄会計から渡し、ヘニング本人か、集落が選ぶ別の受領者の印を取る。代官所は通さない。
「公爵様の旅費が減る」と会計吏が小声で言った。
「城へは歩いて帰れる」
ヘニングは銀貨より、支払日と受領者欄を長く見た。
「石を一枚、出します。ただし、水路の名は白石河道へ戻してもらう」
エッダが鍵束を机へ置いた。
「それなら南井戸の者は運ばない。上の名になれば、渇いた時に上で止められる」
「切るのも直すのもこちらだ」
「飲むのは下の家々だよ」
リディアは二人の間へ台帳を置いた。
「正式名を一つに決めましょう。旧名を白石河道北端、現用名を南井戸として」
「上が正式、下は通称か」
エッダが即座に返した。
「では逆に」
「石を出す者の名が、注釈へ落ちる」
ヘニングも引かなかった。
どちらかを正しい名にすれば、もう一方は補助になる。補助になった側は、渇水時の利用権か、次の修理責任を失う。王都では、名を一つへ揃えることが正確さだった。ここでは、その正確さが誰かの仕事を消す。
「二つとも、主名にします」
リディアは新しい用紙を横に使った。上下ではなく、左右へ二つの欄を並べる。
白石集落は取入口と導水石を点検し、切石と作業日を記録する。南井戸区は運搬と沈殿槽を担い、週ごとの取水量を記録する。修繕費は取水量に応じて公爵家が双方へ配分する。渇水時に片側だけで閉じない。
「書けば守られるのか」
ヘニングの問いは、昼のリディアなら傷ついたかもしれない。
「いいえ。今夜、石を運ばなければ守られません」
リディアは答えた。
「この線は、仕事をした人と使った水量を、次の支払いから消しにくくするだけです」
エッダが用紙を読み、ヘニングへ回した。
「南井戸が使いすぎたら?」
「量が残る」
「白石が石を出さなかったら?」
「日付が空く」
「公爵家がまた払わなかったら?」
アレクシスが自分で答えた。
「私の欄が止まる」
最初に署名したのはヘニングだった。次にエッダ。最後にアレクシスが、二人と分けた領主責任欄へ名を書き、起動許可欄へ印を押した。
リディアは三人の署名と、現地で測った水量を新しい対応線へ書き込む。起動許可欄へは触れなかった。石を運ぶころには、月が出ていた。
白石の男たちが切石を橇へ載せ、南井戸の作業者が二頭の馬と綱を出した。坂では肩を貸し合ったが、仲直りの言葉はなかった。ヘニングは下流の縄の結び方を二度直し、エッダは礼を言わず、次の曲がりで自分から綱を持った。
割れた導水石を外すと、泥水が一気に管へ流れ込んだ。土嚢で流れを止め、底を掻き、白石をはめる。夜半を過ぎ、アレクシスが起動許可印へ指を置き、仮線へ流れを通した時、水量を測るリディアの右手が震え始めた。
銀筆の先が水量目盛りから外れる。左手で手首を押さえると、四日前に外した三十七本の保証痕が、皮膚の下で冷たく引いた。
「代わる者は」
アレクシスが聞いた。
「測定を保持できるのは、今は私だけです」
「どれほど」
「石が馴染むまで。あと半刻」
「半刻を越えたら切る」
リディアは頷いた。ヘニングが管の音を聞き、エッダが沈殿槽の泥を掻き出す。その二人の仕事を、彼女は目盛りから外さないことだけに集中した。
夜明け前、最初の水が南井戸へ届いた。
まだ薄く濁っていた。エッダは歓声を上げる者を止め、三桶を捨てた。四桶目を硝子瓶へ取り、匂いを嗅ぎ、布を通して底を見た。
「昨日の根の臭いはない」
飲用を戻すのは、沈殿と煮沸を確認してから。仮線は三日間、一刻ごとに水量を記録する。祝福灯は弱く、朝の光の中ではほとんど見えなかった。それでも清水樽の鍵は開いた。
最初の配水を積んだ荷馬車が、古い治癒倉庫へ向けて坂を下った。御者のトーマは二十歳で、片手で手綱を揃え、眠そうな馬へ短く声をかける。曲がり角の警告灯は消えていた。夜明けの明るさでは、誰もそれに気づかなかった。
外側の車輪が、雪解けで浮いた路肩石へ乗った。土が崩れ、馬が横へ跳ねる。水樽が荷台の留め木を折った。
エッダが名を叫んだ時には、荷馬車は坂の下で横倒しになっていた。




