井戸は名前だけでは澄まない
リディアが銀筆を出すより先に、井戸番は最後の清水樽へ鍵を掛けた。
「夕方までは開けません」
井戸番のエッダは、腰の鍵束へ両手を重ねた。日に焼けた指の節が太い。彼女の背後では、広場を半周する列が、桶を足元へ置いたまま動かずにいる。
「子どもと熱のある者へ、先に配るべきでは?」
「先に開ければ、夜番の分がなくなります。誰の子から飲ませるかを、王都の方が決めますか」
差し出された濁水の桶には、鉄と湿った根の匂いがあった。リディアは答えず、鞄から細口の硝子瓶を三本出した。
井戸の表面、底近く、広場の端にある予備水槽から一本ずつ採った。汲む場所と時刻を紙片へ書き、エッダに読み上げてもらう。
馬車を降りた時から、住民たちはリディアの手元を見ていた。王太子に捨てられた女が、井戸を直せるという。そんな噂が先に着いているのかもしれない。今ここで役に立てば、一昨日の朝に王都へ戻らなかった選択にも、少しは形がつく。
その考えを認めると、銀筆が急に重くなった。井戸の縁には、古い契約文字が二重に刻まれていた。深い方は、白石河道北端。浅く新しい方は、南井戸。広場の者は、どちらでもなく広場井戸と呼んでいる。
古い名と使われる名が離れ、保証先を見失っている。王都で何度も見た故障だった。
「台帳を」
アレクシスが従者から革包みを受け取り、自分で石縁へ広げた。井戸の変遷、管理者、過去の補修。六年前から頁の余白が増え、三年前から濁水の印が続いている。
「原因は名称の断絶だと思います」
リディアは三つの呼び名を指した。
「対応欄を作り、現地責任者と領主が確認すれば、小さな試験線は引けます。本線を動かす権限は、今の私にはありません」
「試験で井戸を壊す危険は」
アレクシスは住民でなく、まずそこを聞いた。
「汲み上げ口の一部だけを通します。悪化すれば切れる仮線にします」
彼はエッダへ向き直った。
「井戸番として確認できるか」
エッダは台帳を読まず、濁った桶を見た。
「澄まなかったら、この方が間違えたと、ここで言ってよいですか」
「私が記録します」
リディアが答えると、エッダはようやく鍵束から小さな鉄印を外した。
三つの呼び名を消さず、互いの参照先として並べる。エッダとアレクシスが確認欄へ署名し、それぞれの印を押した。リディアが名を書いたのは、試験線の設計者欄だけだった。二つの印から細い光が伸び、リディアの銀筆で描いた試験線を通って、石縁の古い溝へ入る。
光は一度、白石河道北端の文字で止まった。南井戸へ渡り、広場井戸の呼び声を拾って、滑車の下まで届く。列の前方で、誰かが息を呑んだ。
エッダが桶を下ろす。滑車が鳴り、濁った水面を割った。
引き上げた水は、先ほどと同じ褐色だった。幼い子が母親の袖を引いた。
「光ったのに」
母親は子の肩へ手を置き、リディアを見た。エッダは桶の底を杓でかき混ぜた。
「土の匂いも同じです」
「もう一度、底の線を」
リディアは井戸へ身を乗り出した。光は正しく管理名へ届いている。文字の欠けも、署名のずれもない。保証線は水を清める力を作るものではないが、本来なら沈殿槽へ流れを振り分けるはずだった。
「名前はつながっています」
「では、水はいつ飲めます」
エッダの問いに、時刻で答えられなかった。
広場の端で、清水樽の鍵が一度鳴った。夕配分を待てない家が帰り始めている。桶を引きずる音が、石畳を順に離れた。
「次に見る場所は」
「井戸底と、導水口です」
「底へ人を下ろせるか」
エッダが首を振る。
「今日は無理です。臭いが変わっています。上から見てください」
リディアは採水瓶を光へ透かした。井戸底の一本だけに、白い細片が浮いている。石の粉だった。古い契約文字の欠片ではない。角が新しく、指で潰すと泥の中に白い筋が残った。
アレクシスが台帳の地図を押さえた。
「上流の取入口は、ここからどれほどだ」
「歩いて半刻です」とエッダが言う。「けれど、雪解けの時期は脇道が沈みます」
「案内を頼む」
「私が井戸を離れれば、夕方の鍵を誰が開けるんです」
エッダは列の後ろから青年を呼んだ。鍵束の革紐を締め直す間にも、その目は清水樽から離れなかった。
取入口へ向かう道は、広場の裏から斜面を上った。残雪の下を水が走り、靴の底で土が滑る。リディアは裾を持ち上げながら、地図と水音を見比べた。上流の小さな水溜めは澄んでいた。
そこから石管へ入る手前も、濁っていない。
「井戸までの途中で混ざっています」
案内の青年が、倒木の先を指した。
「去年から、あそこだけ地面が沈むんです。白石の連中には言いました」
石管を覆う土を除けると、平らな導水石が斜めに落ちていた。中央を割れ目が走り、雪解けの泥水が管の中へ細く注いでいる。アレクシスは外套を脱いだ。
「閣下」
「割れ目の先を見る」
「護衛に」
「私の領の水だ」
彼は膝まで泥へ入り、石の下へ腕を差し込んだ。案内役と護衛が土を支える。リディアも手袋を外し、流入口から出る白い粉を紙へ受けた。井戸で見たものと同じだった。
名をつなぎ直した紙の上へ、割れ目から白い粉が一粒こぼれた。
「交換材はありますか」
青年が口を曲げた。
「上の白石集落に。ここの石は、あそこで切る」
「運ぶ人手は」
「南井戸区です。うちの荷車を出します」
「なら、すぐに双方へ」
「出ませんよ」
青年は泥の中のアレクシスを見ても、言葉を引っ込めなかった。
「白石は石を渡さない。南井戸は、あいつらの水路名へ署名しない。去年の秋から、同じ話です」
斜面の下で夕刻の鐘が鳴った。
石は上流にある。荷車と作業者は下流にいる。




