王太子殿下の朝湯が冷めました
夜明けの鐘が鳴り終わるのと同時に、王宮の湯船から湯気が消えた。
王太子ユリウスは、湯船を見てもいなかった。昨夜の騒ぎは朝湯で流し、何もなかった顔で謁見に出る。いつものように、肩まで一息に飛び込んだ。
「――っ!」
水だった。
冬の噴水の底のような冷たさが、肌という肌に食いつく。心臓が喉まで跳ね上がった。
「誰だ、水を張ったのは!」
湯船から転がり出た膝が、大理石の上でがくがくと笑っている。王太子の膝が、言うことを聞かない。
「侍従! 侍従!」
戸口の三人が、同時に振り向いた。どれが湯殿の係なのか、ユリウスは知らない。知る必要もなかった。湯は毎朝、呼ぶ前から熱かったのだ。
一人がおずおずと進み出た。唇が紫色だ。
「鐘と一緒に、急に……釜場で焚かせておりますが、とても。何のお知らせも、ございませんでしたので」
「知らせ? 王宮の湯が冷めないのは、当たり前ではないか。釜場の係は、毎朝何をしていたのだ」
湯殿係は答えられずに俯いた。
壁には、湯船を見下ろす王家の紋章がはめこんである。ユリウスは手拭いを肩に掛けたまま、その縁を苛々と爪でこすった。
金が、薄皮のようにめくれた。
下から出てきたのは、のっぺりとした灰色の漆喰だった。彫りも、何もない。
王家の紋章は、中まで金なのだと思っていた。
ユリウスは爪の先の金を手拭いでぬぐって、見なかったことにした。
着替えて廊下へ出ると、靴の下で水が鳴った。
祝宴の氷の白鳥が、運び出されたまま水溜まりになっている。嘴だった欠片が一つ、凍りかけた水面に浮いていた。
侍従たちが雑巾を抱えて走り回る。その一人とぶつかりかけて、ユリウスの足が滑った。
膝をつく。
今朝、二度目の濡れた膝だった。
雑巾の侍従たちが、揃って天井のほうへ目を逸らした。
「……拭け」
開いた扉の奥に、大広間の天井が見える。七つの硝子の灯のうち、段の上の一つは、昨夜帳面係が出ていったときに消えて、黒いままだ。
今朝は、その隣の一つも黒い。残る五つは、弱々しく瞬いていた。
「湯の灯でございます」
雑巾を握った侍従が、黒いほうを見上げた。
「夜明けに消えまして。湯殿の湯も、お部屋の暖も、王宮じゅうの分があの一つに映りますので」
湯の灯。そんなものがあったのか。
ユリウスは裾を払って立ち上がった。
「院長を呼べ。謁見の前にだ。今すぐ!」
謁見の間の控えには、廷臣たちが詰めていた。暖炉に火はあるのに、誰もが外套の襟を立て、白い息を吐いている。
院長は、いつもの足取りで現れた。白い眉の下の目でユリウスの濡れた髪を一度だけ見て、それから深く頭を下げた。
廷臣たちが見ている。湯ごときで慌てた顔はできない。
「湯が少々冷めたくらいで、騒ぐことはあるまい。院長は昨夜、石には三日あると言ったではないか。ならば今朝のことも、何かの手違いだろう。そうだろう、院長」
「夜のうちに、思ったより多く燃えましたね」
院長は、子どもの熱の具合でも話すような声で言った。
「すぐに手当てをいたします。院の者が、もう祈りの間に入っておりますよ」
細く開いた祈りの間の扉の奥に、院の若い神官たちが並んでいた。どの顔も、紙のように青い。
祈っているのなら、問題はあるまい。
「聞いたな。何も問題はない。書記、記録しておきたまえ。石は院長の見立てどおり、今朝のことは一時の手違いだと」
壁際の小卓で、若い書記がペンを取った。
院長が、その書記に声をかけた。
「フィン、殿下のお言葉どおりにお書きなさい。一字も足さずにね」
若い書記の名は、フィンというらしい。覚えておく名でもなかった。
フィンは読み上げながら、ペンを走らせた。
「院長様の、見立てどおり、三日……」
ペン先が、そこで止まった。
「……手順書には夜明けまでと」
言ってから、フィンは自分の口を手で押さえた。
控えの間が、ざわりと揺れた。
「手順書……昨夜、帳面係が置いていった、あの紙の束か」
廷臣の一人が呟き、隣の一人が続けた。
「帳面係に読めたものが、院長様に読めないはずは――」
言いかけて、その廷臣は自分で口をつぐんだ。誰も院長を見ない。見ないことで、皆が院長を見ていた。
同じ目の端が、ユリウスにも流れてくる。昨夜、三日と聞いて真っ先に肩を下ろしたのは誰だったか。皆、覚えている顔だった。
「書記!」
声が、天井に跳ね返った。
「誰が書記に意見を求めた。院の長が話しているのだぞ。書記が、書記ごときが、廷臣の前で口を挟むのか。父上のお耳に入ったらどうするのだ!」
手順書とやらが何なのかは、どうでもよかった。紙のことは紙の係が考えればよい。
フィンは真っ青になって、深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません。書き損じ……口が、滑りました。すぐ書き直します。ですので、職のほうは、その……」
院長が、小卓へ歩み寄った。フィンの手から書きかけの紙を抜き取る。二つに畳んで、自分の袖にしまった。
それからユリウスに一礼して、祈りの間へ戻っていった。扉が、音もなく閉まった。
いつもなら、あの穏やかな背中を見送れば足りた。
今朝は、ほんの少しだけ足りなかった。
父上には、自分の口から申し上げる。もう手は打たせた、と。そう聞けば、今度こそ言ってくださるだろう。王の器だ、と。
王の部屋へ向かう廊下は、窓の内側にまで霜が張りつき、衛兵の槍の穂先まで白い。
ところが扉が開いたとたん、頬にぬるい空気が触れた。
暖炉には、熾火が小さく赤いだけだ。窓に霜もない。王宮じゅうの暖が消えた朝に、この部屋だけが春の午後のように温かい。
なぜここだけ、と一瞬思った。父上の部屋なのだから、と思い直して、それきりにした。
王は寝台に半身を起こし、窓の外を見ていた。
ユリウスは寝台の脇に膝をついた。濡れた膝が、ここでは冷たくない。
「父上、ご報告に参りました。宮殿じゅうの湯も暖も冷えきっておりますが、こちらにもすぐ火を運ばせますゆえ、ご安心を。院長には手当てを命じてございます。そもそもは帳面係が勝手に務めを放り出しまして、ですが私が――」
「ユリウス」
王が遮った。
「余の部屋は、寒くない」
火は要らぬ、ということらしい。宮殿が冷えたと聞いても、王の眉は少しも動かなかった。
それきり目を閉じ、待っても開かない。報告の続きも、要らぬのだ。
「……失礼いたします」
立ち上がって下がる背中に、もう一言だけ届いた。
「戸を、閉めていけ」
廊下の冷えが、まだ湿った膝に噛みつく。王宮でただ一つの温かい部屋が、背中で閉まった。
王の器だ、という言葉は、今朝も聞けなかった。
戻る廊下の角で、ユリウスは足を止めた。柱の陰から、院長の声がする。
向かいに、手袋をはめた男が杖を持って立っていた。昨夜の祝宴で、院長の後ろに控えていた男だ。
「北の道は、もう雪が深いでしょう。馬は二頭お連れなさい」
「今日のうちに発ちます」
「手荒なことは要りませんよ。リディアは、差し出された紙には名を書く子です。小さいころから、そうでした」
リディア。誰のことかと考えかけて、帳面係の名だと思い当たった。
北へ逃げたのか。どこでも構わない。あれは帳面係だ。紙を出されれば、書く。書けば戻ってくる。戻れば、湯も戻る。
父上にも、今度こそ片がついたと申し上げられる。
ユリウスは、口もとがゆるむのを止めなかった。
院長が、男の手袋の甲を、軽く叩いた。
「あの娘に、何か一つ署名させなさい。何でもいい」




