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戻る家のない朝

馬車に乗る前に、どうしても渡さなければならない紙があった。


リディアは鞄を座席へ置き、王宮東棟の受付へ向かった。空が白み始めても、祝宴の名残は石廊下の隅に残っている。踏まれた花びらを掃く音が、閉じた扉の向こうから聞こえた。


胸元の通行章は、昨夜のうちに返している。受付格子の前で名を告げると、夜番の書記は椅子から立ったものの、内側の扉を開けなかった。


「王家祝福局の主任か、ヴァルター神官長へ直接お渡ししたいのです」


リディアは五枚綴りを差し出した。解除した三十七経路の名称、最後に点検した日、蓄積石が保つと見込まれる時間、後任に必要な容量。第四灯に出た黒い脈については、最初の頁へ赤で書き足してある。書記は宛名を読み、困ったように唇を舐めた。


「主任の登庁は第三鐘です。神官長は昨夜から灯務室におられますが、退任された方をお通しするなと」


「では、当直契約官を呼んでください。内容を説明し、受領者名をいただきます」


「当直は灯の移管作業中です。書面でしたら、受付印を押してお預かりできます」


「誰が受け取ったことになりますか」


「王宮受付です」


「人の名前を伺っています」


若い書記の耳が赤くなった。格子の下で両手を握り、視線を落とした。


「私の権限では、内容の受領確認まではできません」


正直な返事だった。だからこそ、リディアは待つべきだった。第三鐘まで二刻。主任が来なければ、灯務室の前でヴァルターが出てくるまで待てばいい。


外では馬が石を蹴っている。王宮を去る期限は第一鐘。正式な入館許可を取り直すには、昨夜彼女を解任した官房の承認が要る。それでも、待って交渉する方法は残っていた。


「馬車は待たせられる」


廊下の入口からアレクシスが言った。格子までは近づかず、濡れた手袋を外している。


「第三鐘に出ても、第五日の到着は変わらない」


リディアは綴りの角を見た。昨夜、大広間で「今でなくてもよい」と笑った人々の顔が浮かぶ。細かいと言ったのだから、一度くらい、この細かい五枚を自分たちの手で探し、読めばいい。


「受付印をお願いします。頁数と時刻も」


書記は安堵したように息を吐き、最終頁へ角印を押した。五枚、第一月第二日、第一鐘前。そこには確かに書かれたが、受領者の欄だけが空いたままだった。


リディアは綴りを受付箱へ入れた。蓋が閉じる音は、思ったより軽かった。


東門を出るとき、エルンスト家の馬車はまだ車寄せにいた。家令は追わず、深く頭を下げた。あの馬車へ乗れば屋敷には着く。それでも、そこを帰る場所だと思える自分はもういなかった。


王都の城壁が後ろへ遠ざかる。リディアは膝に置いた引継ぎ書の控えへ目を落とした。急いで作ったため封をしておらず、馬車が轍を越えた拍子に一枚目が床へ滑った。アレクシスが靴先で止める。


「読んでも?」


リディアは頷いた。彼は拾い上げ、内容ではなく末尾を先に見た。


「受領者欄が空だ」


「王宮受付の印はあります」


「あなたが二か月前に返した照会書には、受け取った書記の役職と時刻まで書いてあった」


リディアは控えを受け取った。折れた角を指で伸ばし、膝へ戻す。


「今回は、そこまでの権限がありませんでした」


「待つ時間はあった」


アレクシスの声には、責める響きがなかった。リディアは控えの折れた角をもう一度伸ばした。


「もう王宮の仕事ではありません」


「そうか」


アレクシスはそれ以上聞かなかった。窓の外へ視線を移し、次の宿駅までの距離を御者へ確かめる。その横顔に、納得した様子はなかった。


出立の日は雨だった。街道脇の畑は春の芽を出したばかりで、車輪が水を跳ねるたび、荷台の下から湿った土の匂いが上がった。リディアは何度も控えを開き、文字を追っては同じ場所で止まった。


翌朝、最初の宿駅へ着くと、王都から来た早馬が中庭へ駆け込んだ。馬の腹は泡立ち、騎手の外套には王家の急報紋がついている。


駅吏が受け取った公報を掲示板へ打ちつけた。旅人が集まるより早く、リディアは日付を見た。


王暦二百十八年、春第一月第三日、第一鐘。


王都東治癒院の四病棟で、祈りの配送が停止。祈り手の発光は確認されるものの、治療床へ到達せず。一般診療を休止し、薬師と外科医を招集中。


喉の奥が冷えた。第二保証線。一昨日の夜、二番目に解除した経路だった。蓄積石の残量は、平常負荷なら三日分あるはずだったが、春の祝宴後は治療希望者が増える。引継ぎ書の一枚目に、赤で記したことでもある。


紙を押さえる右手が震えた。外したはずの線が、指の白い痕を内側から引いているようだった。背後にアレクシスが立っていた。


「戻るなら、今決めろ」


「替え馬は十五分で繋がる。引き返せば王都へは明朝。北へ進めば、予定どおり第五日の昼にヴァルハルトだ」


「閣下は、どちらをお望みですか」


「北だ。私はあなたを雇った」


彼は公報へ目をやった。風にめくれた端を、手袋の指で押さえる。


「ただし王宮へ戻れば、彼らがあなたを通すか、留め置くかは分からない。そこまで含めて決めてくれ」


選ばせる言葉には、彼自身の利益もはっきり混ざっていた。リディアはもう一度、公報を読んだ。


戻れば、祈りを経路へ載せ直せるかもしれない。少なくとも、どこを確認すべきか説明できる。けれど銀の保証印は割れ、役職も通行章もない。五枚の引継ぎ書は王宮の中にある。


困れば、今度こそ誰が線を支えていたか気づくだろう。その考えを口に出さず、公報から手を離した。


「進みます」


アレクシスは頷き、御者へ北門を指した。


駅舎の窓口には、王都行きの急送便を受け付ける札が出ていた。リディアは一度そちらを見たが、鞄から紙を出さなかった。


財布の留め金に触れた指を、そのまま膝へ戻した。アレクシスは馬の数を確かめるだけだった。


その日の夜には雨が雪へ変わり、第四日の朝、道の両側に黒い針葉樹が増えた。王都の白い塔はどこにも見えない。リディアは眠るたび、受付箱の軽い蓋の音で目を覚ました。


第五日の昼前、ヴァルハルト城下へ入った。


歓迎の人列はなかった。城門で待っていた騎士が、アレクシスへ泥の跳ねた紙を渡す。彼は三行ほど読むと、そのまま御者へ命じた。


「城ではなく南井戸へ。貯水が尽きる」


馬車は石造りの城を右に見て、低い家々の間を下った。広場の井戸には長い列ができている。桶を持った住民たちは話もせず、濁った水面と、王都から来た馬車を交互に見ていた。


リディアが降りると、井戸番が底の泥を汲んだ桶を差し出した。水は褐色で、鉄と湿った根の匂いがする。


「予備の貯水は、どれほどありますか」


井戸番は腰の鍵束を握った。背後の列で、空の桶が石へ触れた。


「夜明けまでです。直らなければ、その先はありません」


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