夜明けまで六時間
「返事は、悪い方を全部聞いてからでいい」
男はリディアの右手から目を上げ、そう言った。
「アレクシス・ヴァルハルト。北の公爵だ」
名乗られても、足は止めない。朝までここにいれば、院長は穏やかに「疲れていたのでしょう」と言い、今夜の撤回は一晩の気の迷いとして片づけられる。あの人は、そういう片づけ方が上手い。
「今夜のうちに王宮を出ます。お話は、歩きながら伺います、閣下」
アレクシスは半歩後ろを、同じ速さでついてきた。
「北の城は暖かくない」
「暖かくない、とは」
「去年の冬、寝所の水差しが凍った」
「……割れましたか」
「割れた。二つ」
求人の口上を、凍った水差しの数から始める人を初めて見た。普通はもう少し、景気のいい話からではないだろうか。いや、私も求人を受けるのは初めてなのだけれど。
「祝福院は、北の石を買いには来る。井戸と灯を見に来た者は、三年いない」
王宮では、院の名を出すとき誰もが少し声を落とす。この人は落とさない。
「北の井戸と灯を、北の石で直したい。契約官が要る」
契約官。王宮では誰も使わなかった、私の仕事の本当の名前だ。
部屋に寄り、詰めておいた鞄を取った。片づけた部屋は、手を掛けた場所ほど空っぽに見えて、ひどく広い。
棚には、寝る前に一章ずつ読んできた冒険小説『雪路の配達人』が十一冊。最終巻は、買いに行く暇がなかった。
鞄に詰めたのは、六年分の手控えの帳面だけ。本は重いから置いていく。未練など、ない。
……結末だけは、ちょっと気になるけれど。
車寄せには、雪が斜めに吹き込んでいた。
エルンスト家の馬車が、ちょうど扉を閉めるところだった。窓の向こうで、父がこちらを見る。それから、娘の後ろに停まった黒い馬車の紋を見た。
「お前は……」
口が開いて、閉じた。
「……いや、よい。出せ」
馬車は娘を乗せずに、雪の中へ出ていった。
なるほど。これで、帰る先に迷う手間が一つ省けた。
代わりに、黒い馬車から年かさの御者が降りてきた。リディアの鞄に手を掛け、持ち上げたところで、腰ごとがくんと沈む。
「おっと。中身は金庫ですか」
「帳面でございます」
「じゃあ揺らせませんね。字がこぼれる」
噴き出した。
こらえようとしたら、鼻から妙な音が出た。父の馬車の轍がまだ雪に残っているのに、笑いが止まらない。
アレクシスは踏み台を下ろし、彼女が笑い終えるまで扉を押さえていた。
馬車が門を抜ける。今夜のうちだ。
隣で彼が毛布を広げ、端をこちらへ寄越した。もう片方の端は、彼の膝にある。
「薬師は、城下に一人しかいない」
まだ続くのか、悪い方。
「院長には、石の値の件で十日待たされた。今夜も中庭で待てと言われて、会えなかった」
黒い外套の肩で、雪がようやく溶け始めていた。中庭で院長を待っていた雪だ。
人を寒い所で待たせておいて、出てきたときには「冷えたでしょう」と気遣う。
宿の小部屋には、小さな炉が一つあった。アレクシスは炭を足し、卓に紙を広げる。
三十日の雇いの契約書だった。条はどれも短く、終わりの一行は『帰る日は彼女が決める』。給金の欄だけが白い。
「欄は空けてある。あなたが書け」
ペンを渡された。
……え。私が?
ペン先から、インクが一滴、欄の外へ落ちた。
王家の契約なら何十件も書き写してきた。湯の値も、灯の値も知っている。自分の値だけ、一度も書いたことがない。
「字が、震えますので」
言い訳だった。嘘ではない。戻ってきた血のせいで、指先はまだ脈を打っている。けれど震えていなくても、たぶん書けなかった。
「前の給金は」
「奉仕でした」
口にしてみると、「奉仕」という一語は、卓の上でやけに軽い音がした。
アレクシスは何も言わずに、白い欄を指で二度叩いた。
「院は、契約官に三十日で何枚払う」
「……銀貨二十二枚でございます」
アレクシスはペンを取り返し、欄に書いた。四十四。
「多すぎます。院と同じで結構でございます」
ペンが動く。四十四が二本の棒で消され、横に四十五。
「閣下。上がっております」
「下げろと言われるたびに、一枚足す」
何という雇い主だろう。リディアは口を閉じた。これ以上言えば、北の銀貨が尽きる。
アレクシスの指が、条の一つに置かれた。『北では、契約官の身体に線を受けさせない』とある。
「北では、あなたの身体に線を受けさせない」
線。床下を走る、あの銀の糸を、院ではそう呼ぶ。灯へ光を運ぶ途中で糸は揺れ、その揺れが冷えになって、この右手に落ちてきた。六年、毎晩。
卓の下で、右手を握った。
「私の手のことは、どなたにも申し上げておりません」
アレクシスは左手を卓に置いた。手袋のない荒れた手の、小指だけが曲がったまま戻らない。
「十六の冬に、境の線を一冬、この手で受けた」
それきりだった。
一冬。あの冷えを、十六の子どもが、左手一つで。
六年、この手のことを訊いた人はいなかった。訊かずに、条にした人も。
指が、一つ下の条へ移る。
「これは悪い方の条だ。北は王家に睨まれる。雇われたあなたの名も、王都で悪く言われる」
悪く言われるのなら、もう慣れた。帳面係と、今夜だけで何度呼ばれたことか。
それにしても、こういうことは普通、いちばん最後に、いちばん小さな字で書くものだ。
「隠して署名させたら、三十日も働かないだろう」
……正しい。初日で荷をまとめていた自信がある。
「契約官を雇えば、院へ届け出る決まりだ。用紙は後ろに綴じてある」
最後の一枚は、院の書式を写した届け出だった。リディアは、その署名の欄に人差し指を当てた。
冷たい。
紙はどこも炉の火でぬるんでいるのに、その欄だけが、冬の朝の銀の匙のように冷えている。
覚えのある冷たさだった。さっきまでこの右手に落ちてきていたのと、同じ手触り。院の紙に、それがある。いい知らせのはずがない。
「この欄だけ、冷たいのでございます。この一枚は、外してくださいませ」
「理由は」
「明日には、お分かりになります」
アレクシスはしばらく彼女の指を見ていた。それから綴じ紐を切って用紙を抜き、契約書の『写しは院へ届ける』の一行を消して、横に『写しは北の城の書庫に置く』と書き直した。
理由を、重ねては訊かなかった。
ぐう、と鳴った。
静かな部屋で、腹が。私の。
祝宴で口にしたのは、冷めた焼き菓子一つ。夜半までもつはずがなかった。よりによって、契約の席で。
「条項を足す」
アレクシスはもうペンを持っていた。
「雇い主は、雇った者に夜食を出す」
湯のための条も、灯のための条も、帳面には数えきれないほどある。私の腹のための条は、一つもなかった。
返事の前に、少しだけ間があいた。
「……受理します」
アレクシスが余白に書き足し、先に名を記す。リディアもペンを取った。
名前は、震えずに書けた。
インクが乾くのを待つあいだに、アレクシスが外套の隠しから何かを出し、卓に置いた。
割れた銀印の、もう半分だった。
「大広間の床にあった」
皆が天井の灯を見上げていたあいだ、この人は床を見ていたのだ。
手持ちの半分を並べると、割れ口がぴたりと合った。二つをハンカチに包み、端をきつく折り込む。
遠くで、王都の時鐘が夜半を打ちはじめた。
窓の向こうで、王宮の灯が細かく瞬いている。若い書記に預けた紙の束は、もう持ち場に届いただろうか。殿下の朝湯は、たしか夜明けのすぐあとだ。
鐘が鳴りやんでも、瞬きは止まらなかった。
王都に残されたのは、夜明けまで六時間だった。




