氷の公爵は取引をする
夜明けの第一鐘までに、リディアは次に眠る場所を決めなければならなかった。
王太子婚約者の控室だった部屋は、夜のうちにただの東控室へ戻された。扉の外には、荷造りを見届けるための宮廷衛士が二人立っていた。十年という時間も、王宮では呼び名一つで片づくものらしい。
持ち出せる私物は鞄二つに収まった。着替え、母の形見の短い鉛筆、茶葉の缶。残りは自分で作った点検控えで、王家の原本は一枚もない。三つ目の鞄へ手を伸ばしたところで、衛士が扉を叩いた。
「エルンスト伯爵家より、お迎えは第一鐘との連絡です」
差し出された短い手紙は、家令の筆だった。父の自筆は、末尾の名前だけだった。
すぐ戻れ。王家への詫び方はこちらで決める。余計な書面へ署名するな。
リディアは手紙を畳み直した。帰れば今夜の出来事は、王太子の判断ではなく、王家を満足させられなかった娘の失敗として処理されるだろう。それでも屋敷には自分の部屋があり、見知った使用人がいる。少なくとも、今夜どこで眠るかを心配せずに済む。
衛士の声がわずかに低くなった。廊下を振り返ってから、名を告げる。
「もう一人、面会を求めておられます。ヴァルハルト公爵閣下です」
通された男は、祝宴で見た黒い礼装から濃紺の旅装へ着替えていた。アレクシス・ヴァルハルト。北の国境を預かり、氷の公爵と呼ばれる人は、慰めの花も酒も持ってこなかった。厚い紙を十二枚、机へ置いた。
「三十日間、ヴァルハルト領の水路、街道警告路、治療用経路を調査してほしい。署名と起動の権限は含めない。必要な宿、移動、護衛はこちらで用意する」
挨拶の次が期限と範囲だった。リディアは椅子を勧めるのを忘れ、最初の頁をめくった。
「私が今夜、婚約を解かれるとご存じだったのですか」
「知らなかった。王宮へは、あなたの出向を願うつもりで来た」
アレクシスは内ポケットから、傷んだ公文書を三通出した。ヴァルハルトから王家祝福局へ送った不具合報告である。二通は「土地固有の弱化」として返され、最後の一通だけ、欄外に細い字で追加調査を求めていた。
リディアの字だった。
「二か月前から、王都の返答を書いているのが誰か調べた。あなたの名は回答欄になく、回覧印にだけあった」
「宮廷の書類を調べさせたのですね」
「私の領では、昨冬に警告灯が二度消えた。三度目を待つ気はない」
謝罪はなかった。彼には知る必要があり、そのために調べたという顔をしている。
リディアは雇用案を読み進めた。報酬、宿、護衛、守秘、途中解除時の帰路。書式は簡潔で、曖昧な「誠意」や「必要に応じて」が少ない。読み手が手を止める場所を、書いた者が予想している。それだけに、欠けているものが目についた。
「調査結果を、何にお使いになりますか」
「井戸と警告路を直す」
「それだけなら、私である必要はありません。三十日も置く理由も」
アレクシスの視線が、机の端にある父の手紙へ移った。文章を読める向きではなかったが、伯爵家の封は見えたはずだ。
「王都は、辺境の報告を地方の管理不足として退けてきた。あなたが同じ不具合を確認すれば、次の照会では無視できない」
「元王太子婚約者の名を添えられるから、ですか」
「そうだ。王都商会との薬材交渉にも使う。王家の保証網だけに頼らず運べると示せれば、辺境独自の経路を要求できる」
「つまり、私の知識と一緒に、王都への交渉材料を雇う」
「それを隠した文面では、あなたは署名しないだろう」
「隠した文面を持ってきたのは閣下です」
「尋ねなければ、そのまま出すつもりだった」
ひどく正直な答えだった。リディアが黙ると、アレクシスは言い訳をせず、欠落した第七条の上へ横線を引いた。
「文を決めてくれ」
リディアは新しい紙を求めた。王宮の備品には触れず、鞄から自分の便箋を出した。
雇用の事実は、ヴァルハルト領が王都と交渉する際に公表できる。ただし、調査完了前にリディア個人の見解を代弁してはならない。彼女の名で保証、推薦、王家への非難を行うには、別途本人の署名を要する。
書き終えると、アレクシスは一度読み、二行目に印をつけた。指先でその一節を押さえ、リディアへ紙を返す。
「『いかなる交渉にも』では広すぎる。雇った事実まで伏せれば、こちらが得るものがない」
「ですから、前の文で公表を認めています」
「相手が『雇用は事実か』と聞くたび、あなたの確認を待つ条文にも読める」
二人で語順を変えた。リディアが本人の同意を得ていない病歴を調査報告から外し、アレクシスは軍道の位置を調査控えへ写さない条件を加えた。そこだけは、どちらも譲らなかった。
「現地で必要になれば、閲覧の可否をもう一度協議します」
「閲覧は認めても、持ち出しは認めない」
「今はそれで結構です」
互いが拒む条件も紙に残った。
「最後に一つ。期間中、私はヴァルハルトの契約官を名乗りません。調査受任者です。線を起動させる場合は、現地責任者の署名を先にいただきます」
「分かった。その代わり、私に不利な結果も削るな」
「削除を命じられても残します」
アレクシスの口元が、ごくわずかに動いた。笑ったのかどうかは分からない。
彼は削った箇所へ一つずつ傍印を押した。どれも迷いなく小さかったが、軍道の条文に押した一つだけは、紙の裏まで跡が残った。
二部作った書面へ、まず雇用主が署名した。リディアは署名欄の上で指を止める。父の手紙にあった「余計な書面」が、机の脇で小さく折れている。
王宮へ残る道は、もうなかった。実家へ帰る道ならある。そこでは父の名の下にいればよい。目の前の道では、自分の名が辺境の政治に使われ、失敗すれば結果も自分へ返ってくる。
「帰路の保証を、もう一度確認します。私から解除した場合も、領境までの馬車を一台」
「用意する」
「では、三十日だけ」
三十日後の日付を、もう一度見た。終わりが紙に書かれていることが、今はありがたかった。
リディア・エルンスト、と書いた。割れた王家の保証印ではなく、ただの署名だった。
第一鐘の少し前、宮殿裏の車寄せには二台の馬車が並んでいた。一台は磨き上げられたエルンスト伯爵家の箱馬車で、家令が扉の前に立っている。もう一台は泥の乾いた車輪を持つ、ヴァルハルトの長距離馬車だった。父の馬車には厚い毛布と、屋敷で昔使っていた足台まで積まれていた。
「お嬢様。伯爵閣下がお待ちです」
家令はリディアの荷へ手を伸ばした。反対側で、アレクシスは旅程表を確かめている。
リディアは家令へ鞄を渡さなかった。
ヴァルハルトの馬車まで歩き、自分で取っ手を引いた。扉の向こうから、冷えた革と、まだ乾ききらない土の匂いがした。




