婚約破棄と三十七の解除
婚約破棄を告げられたとき、リディア・エルンストが最初に思ったのは、悲しみではなく契約条項の確認だった。
宣言者は王太子本人。場所は王家の金紋を戴く大広間。立会人は百名を下らない。取り消しの余地を残さないために、よく選ばれた舞台だった。
「リディア。君との婚約は、本日この場をもって解消する」
春の祝宴を奏でていた弦が止まった。正面に立つユリウスは、幼いころから見慣れた顔をしていた。ただし、剣の稽古で右の眉尻を切ったときのような迷いは、もうどこにもなかった。
「承る前に、一点だけ。効力は今夜からで間違いございませんか」
泣き声を待っていたらしい広間が、妙に静まった。ユリウスの隣で、白い祈祷衣の少女が目を瞬く。聖女候補セレスティアの掌には、先ほど貴婦人の火傷を鎮めた光がまだ淡く残っていた。
「そうだ。居室は夜明けまでに明け渡せ。エルンスト伯には知らせてある」
「王宮での職務も、同時に解かれるのでしょうか」
「補助の仕事は官房と神殿へ戻す。長年の奉仕については記録させよう」
奉仕。その一語で、夜ごと直してきた線も、三日眠れずに照合した水路台帳も、すべてが輪郭を失った。
十五歳の冬、彼が夜更けの記録室へ温かいスープを運んでくれたことがある。湯気の向こうで笑った少年と、今の声を、リディアはうまく同じ人にできなかった。ユリウスは集まった貴族たちへ向き直った。
「父上のご病床が長引き、民は王家に目に見える希望を求めている。セレスティアの祈りは傷を癒やし、不安に光を与える。私は彼女を、次代の王妃候補として王家の傍らに迎える」
拍手が弾けた。セレスティアは驚いたように胸元へ手を置き、それから、花がひらくように笑った。ほんの一瞬だった。すぐに慎ましい表情へ戻ったけれど、リディアは見てしまった。
羨ましい、と思った。
祈れば光が生まれ、傷ついた人が礼を言い、誰もが彼女の働きを知る。自分の手で起こしたことを、自分の仕事だと信じてもらえる。笑い声が一つ、拍手の隙間から漏れた。
「帳面を眺めるだけの王妃より、よほど民も喜ぶ」
ユリウスはたしなめなかった。代わりに、リディアへ聞かせるように言った。
「君は有能だ。だが、十年そばにいても、私に見せたのは報告書ばかりだった。国は書庫の中から統べられない」
反論は喉まで出た。彼が民の前へ立つあいだ、書庫でしか守れないものを守ってきたのだと。
けれど、何度疲れているかと問われても「問題ありません」と答え、契約線の逆流で指が震えた夜にも、期限と数値だけを差し出してきたのはリディア自身だった。彼に届かなかったすべてを、彼一人の無関心だけにはできない。
「承知いたしました」
膝を折って礼をする。息が一度、喉で止まった。痛みが顔へ上がってくる前に、リディアは袖から銀の保証印と、今夜の点検に使った薄い綴りを取り出した。
「では、婚姻補助保証の解除へ移ります」
「何の話だ」
「私の名へ接続されている王家祝福契約です。現時点で三十七件ございます」
広間の壁際で、ヴァルター神官長が杖を鳴らした。床へ落ちた音が、拍手の残響を切った。
「お待ちください、エルンスト嬢。移管先の容量確認が済んでおりません。せめて後任三名の印が揃うまで――」
「なぜ三名なのです」
問い返すと、神官長は口を閉じた。ユリウスの顎が硬くなる。
「今夜の席を人質に取るつもりか。中央の蓄積石は三日は持つ。明日、神殿へ移せばよい」
「私は十八歳の春、第四祝福灯一件について説明を受け、撤回権を残して同意しました」
リディアは綴りを開いた。最初の頁だけに、六年前の自筆がある。二頁目以降には王宮官房の追記印が並び、彼女の同意欄は空白だった。
「残る三十六件について、私へ個別に説明した記録はございますか」
「将来の王妃が王家を支えるのは当然だ。君も補修していた。知らなかったとは言わせない」
「知っておりました。線が裂けるたび、こちらの手が痺れましたから」
銀印を持つ右手を開く。薬指の根元には、指輪より細い白い痕が幾重にも巻きついていた。今夜も第四灯を直してきたばかりで、爪の脇に銀粉が残っている。
「事故を止めるための補修と、私の身体を容量として差し出す同意は、同じものではありません」
ヴァルターがユリウスへ低く進言した。杖を握る指の節が、白くなるほどこわばっている。
「殿下。婚約の件とは分け、今夜だけでも留任を。灯の状態がよくありません」
「今、決めたことを翻せば、王家は一人の令嬢に脅されたと見られる」
その答えを、リディアは予想していた。予想していたのに、どこかで違う言葉を待っていたらしい。
セレスティアが一歩進み出た。皆の視線を受けると、その背がわずかに伸びた。
「わたくしが祈ります。足りないものがあるのなら、皆様のために」
また拍手が起きる。今度は、先ほどより大きかった。セレスティアは笑みを保ったままリディアを見たが、白い痕へ目が落ちると、すぐユリウスの肩越しへ視線を逃がした。
一度くらい、床下を見ればいい。
醜い考えが浮かび、消えなかった。消えるのを待たず、リディアは銀印を綴りの第一頁へ置いた。
「第一、春祭第四灯。本人の撤回により、保証を解除します」
遠い鐘に似た音がした。天井の灯から細い銀線がほどけ、床を走って印へ戻る。右腕の内側が焼けるように熱くなった。
「第二、王都東治癒院。第三、南水路第二井戸」
五件目で、笑っていた男が口を閉じた。十二件目で楽師が弓を下ろし、二十一件目でヴァルターが神殿書記へ何かを命じた。銀線が戻るたび、リディアの指は軽くなるどころか震えを増した。長く食い込んだ線は、抜くときにも皮膚を傷つける。
ユリウスは「蓄積石は三日持つ」ともう一度言った。それからは、止めなかった。
「第三十七、北境警告路。以上、本人同意のない追加三十六件を含む、全保証を解除します」
最後の線が切れた。
銀の保証印にひびが入り、二つに割れた。リディアは欠片を綴りの上へ揃えて置く。白い痕は指に残ったままだった。
大広間の噴水は流れている。暖炉も消えず、セレスティアの掌には光がある。何もかも、まだ今までどおりに見えた。
「これで、王家に属するものはすべてお返しいたしました」
ユリウスの目を見て告げると、彼は初めて何かを言いかけた。リディアは待たずに背を向けた。
扉までの距離が、十年より長く感じられた。誰も追ってはこない。背後で楽師が合図を受け、途切れていた曲を弾き直す。扉へ手をかけたとき、頭上で硬い音がした。
七つ並ぶ灯のうち、第四灯の光だけが内側へ細く潰れた。消えはしない。澄んだ金色の芯を、黒い筋が一度だけ走った。
当直書記が椅子を蹴って立ち、灯務日誌を開く。ペン先が紙を引っかく音を聞きながら、リディアは自分の手で扉を閉めた。




