婚約破棄の夜に、私も辞めることにしました
王宮の灯が一度も揺れないのは、リディアの指が冷たいからだ。
それを知らない王太子が、たった今、その灯の下で婚約の破棄を告げた。
返事の代わりに杯を取ろうとしたが、右手に感覚がない。杯は指をすり抜け、大理石の床で高く鳴った。
天井には、王家の奇跡でともる七つの硝子の灯。本当なら、蝋燭の火のように揺れる灯だ。
揺れるはずのぶんだけ、リディアの指が冷える。六年前、そういう契約に署名した。だから今夜も、灯は蜂蜜色のまま、影一つ動かない。
王太子ユリウスの腕には、聖女候補のセレスティアが寄り添っている。袖に添えた手が、金色に温かく光っていた。
「王妃に要るのは、民に見える光だ。帳面係はいらない」
帳面係。ええ、付けてましたとも。殿下の朝湯の温度まで、毎朝。
氷の白鳥を飾った卓の脇で、女官長が扇を広げた。
「まあ、帳面係さんらしい灰青ですこと。埃が目立たなくて、よろしいわね」
くすくす笑いが広がる。柱の陰へ、父が一歩下がった。
誰も、こちら側には立たない。分かっていたことだ。
それなら、話は早い。
「おめでとうございます、殿下。では、私も今夜で辞めます」
広間が、しんと静まった。
「……辞める? 何をだ」
ずっと言えなかった一言は、拍子抜けするほど短かった。目が泳ぎ、泳いだ先に焼き菓子が山になっている。
こんな場面でも、菓子は惜しい。
我ながら呆れて、笑いそうになる。
リディアは段の下の書き物台へ歩き、封蝋つきの一冊を取り出した。奇跡の契約書の綴りだ。
封蝋を、指で割る。乾いた音に、廷臣たちが息を呑んだ。
一頁目は、段の真上に下がる灯一つの契約だ。まだ字の丸い自分の署名と、銀の印。
その後ろに、王宮の湯、街道の灯、治癒院の祈り。王宮じゅうの奇跡が、この一頁に綴じつけてある。
開いた綴りを、王太子へ向ける。ユリウスは見もせずに眉をひそめた。
「君が望んで引き受けた務めではないか。君なら分かるだろう、今夜がどういう夜か」
分かってますとも。とびきり、いい夜です。
「望んで、と仰るのですね」
一頁目を指で押さえる。
「ええ、望んで名を書きました。ですから、退くときも、この一頁で足ります」
廷臣たちのほうが、綴りへ首を伸ばした。
「いつから、そのつもりだった」ユリウスの声が上ずる。「私に恥をかかせるために、今夜まで黙っていたのか」
そう来ましたか。
「三か月前から、決めておりました」
こちらの声は、上ずらない。
「婚約の続くあいだは、退けば背信でございました。殿下が今夜、解いてくださいました」
「……だから、おめでとう、と」
誰かの呟きが、大きく響いた。
リディアはペンを取り、自分の署名へ向けた。
こつん、と杖が床を打った。
上座で、白い眉の老人が立ち上がる。奇跡の契約を一手に結ぶ、祝福院の院長だ。
「お座りなさい、リディア。顔色が悪いね」
子どものころから、この声に言われれば座ってきた。今夜は、座らない。
「この一頁を消せば、後ろに綴じた奇跡も、灯も、一つずつ止まってまいりますね」
廷臣たちがざわめいた。院長は、駄々っ子をあやすように微笑んだ。
「なに、地下には祈りの光を溜めた大きな石があるでしょう。あれが代わりに灯を支えます。三日はもちますよ」
「三日もあるのか」ユリウスが肩を下ろす。「ならば、慌てることはあるまい」
どこかで椅子が引かれ、立っていた廷臣が腰を下ろした。
リディアだけが、天井を見上げた。灯の色を見れば、石の残りが分かる。毎晩、帳面に付けてきた色だ。
三日? あの色なら、夜明けまで。
「殿下の朝湯も、その中に入っております」
朝湯、の一語で、ユリウスの顔色だけが変わった。国の灯より、まず朝湯。この方らしい。
ペン先で、一頁目の最後の一行をなぞる。
「婚約の解かれた夜より、本人はこの務めを退くことができる」
院長の頬から、一瞬だけ笑みが引いた。
その手が綴りへ伸びる。リディアはそれより早く、一冊を胸へ引き寄せた。
「お手をお引きくださいませ、院長様。私の契約でございます」
一頁目の末尾に「撤回」と書き、名を記す。右手だけでは筆先が定まらず、左手を添えた。
腰の袋から、この契約を結んだ銀の印を出して、押した。
床下で、彼女にしか見えない銀の糸がいっせいに動いた。右手へ冷えを運んできた何十本もの糸が印へ吸い戻され、硝子の弦を弾くような音で切れる。
手の中で、印がふたつに割れた。片方が跳ね、人々の靴のあいだへ転がっていく。
冷えが、去っていた。指の奥に霜のように張りついていたものが、湯に落とした砂糖のかたまりみたいに、端からほどけていく。吐き切るのが惜しくて、吸った息をしばらく止めた。
代わりに、血が戻ってきた。指先がどくどくと脈打ち、思わず「いっ」と声が漏れる。
熱いのか痛いのか分からない。いや、痛い。これは痛い。
この指が温かいのは、六年で二度目だった。
一度目の夜のことは、今は考えない。
頭上で、段の上の一つを除く六つの灯が白く尖り、生まれて初めて瞬いた。湯も、市場の商いも、治癒院の癒しも、あの六つに映っている。
足もとの大理石が、じわりとぬるくなる。地下の石が、無理をして灯を支えはじめたのだ。
段の上の一つだけは、蜂蜜色のまま静かだった。私が今、契約ごと撤回した灯だ。硝子に残った光が尽きれば、消える。
卓の上で、氷の白鳥が汗をかいた。首を伝った雫が、女官長の薄桃色の袖へぽたぽた落ちる。甲高い悲鳴。
灰青なら、染みも目立ちませんでしたのに。
「窓を閉めろ! 窓を!」
ユリウスの声に、侍従たちが一斉に高窓を見上げる。どの窓も、きっちり閉まっている。
風じゃありませんよ、殿下。その揺れが、今まで私の右手に来ていたものです。
用意しておいた紙の束を、若い書記の前に置く。持ち場ごとに書いた、奇跡の止め方だ。
「湯も灯も、急に止まれば怪我人が出ます。夜明けまでにお配りください」
「は、はい。三日……いえ、夜明けまでに」
温かい指で、皿の焼き菓子を一つつまむ。冷めていた。
宮廷の菓子は、いつも冷めている。今夜は、指のほうが温かい。一口で食べたら、ちょっと勝った気がした。
「王家のものは、全部お返しいたしました」
裾をつまんで一礼する。お腹の中の焼き菓子一つは、数に入れないことにする。
背を向けると、ユリウスの声が追ってきた。
「待ちたまえ、君。……帳面係! 灯を、灯を戻したまえ!」
六年隣にいて、名前で呼ばれたことは一度もなかった。最後まで。
「帳面係は、いらないと伺いました」
振り返らずに敷居を越えた、その瞬間。背中を照らしていた最後の蜂蜜色の灯が、ふっと消えた。足もとの影も、一緒に消える。
背後で、百人ぶんの息を呑む音がした。
廊下は冷えていて、吐く息が白い。寒さが、外から来る寒さとして分かる。割れた印の半分を握った掌が、温かかった。
扉の脇に、背の高い男が立っていた。黒い外套の肩に、溶けきらない雪。手袋もしていない手が、ひどく荒れている。
男が一歩、通路へ出た。廊下を抜ける夜風が、外套に遮られて止む。風上に立ってくれたのだと、遅れて気づいた。
それ以上は近づかない。視線がリディアの顔を素通りして、右手へ落ちる。指から手首へ走る霜のような白い痕を、痛む場所を探す目でたどっていく。
今夜、広間の誰もが、彼女の顔か灰青の絹を見ていた。この人は、手を見た。
耳が熱いのは、血が戻ったせいだ。きっと。
「いくら払えば、引き受けてもらえる」




