家の敷居を越える
民事記録室には、封印台が三つ離して置かれていた。春第2月第14日、第1鐘。中央の台に記録官、右にオズヴァルト、左にリディアが座り、信用組合の確認官二人は中央台の向こうに並んだ。父娘の椅子の間には、手を伸ばしても届かないだけの空きがある。
最初に開かれたのは、オズヴァルトの放棄書だった。記録官は対象を一項ずつ読み上げる。
「リディア・エルンストが婚姻後に得る将来収入への家の請求。家名を理由に無償奉仕を求める権利。婚姻その他について、家を代表して本人へ同意を求める家長としての地位。以上の三項です」
「その通りです」
「本人の代理署名権は記載しません。これまで成立した事実がなく、放棄できる権利ではないためです」
オズヴァルトは一度だけ、左の台を見た。リディアは記録官の手元を見たまま動かなかった。父は代理署名権のない一行を読み返し、自分の台で封蝋を落とした。
蝋が冷えるまで、父は家門印から手を離さなかった。
次はリディアの放棄書だった。中央の記録官が、開く袋を替えた。
「北書庫別棟への将来取得請求。旧東室についての終身居住および使用予約。放棄はこの二項だけです」
北書庫別棟は、母が晴れた日に本を干した場所だった。旧東室は、その匂いを避けるようになった父から、リディアが受け取っていた部屋だった。
「確認しました」
声にしてから署名した。蝋の上で新しい本人印を使うのは、まだ次の工程だったため、ここでは記録官の面前で姓名を最後まで書いた。
記録官が署名を二度見比べ、リディアの台へ受理札を返した。父の放棄を受け取る札と、自分の権利を手放した札は、色も番号も違っていた。
三通目を、確認官二人が中央の台へ置いた。貸付第27号についての債権範囲確認書。債務者はオズヴァルト・エルンスト、元本六百銀貨、期限後の一部弁済二十一銀貨は受領済み、未払利息三銀貨、年利六パーセント、年額三十六銀貨。担保は北書庫別棟と西倉庫賃料権だけだった。
「現在の請求も、今後この貸付から生じる請求も、リディア・エルンスト本人の別個の署名なしに、本人の収入、財産、労務へ及びません」
年長の確認官が読み、もう一人が原契約の該当欄へ細い定規を当てた。貸付番号から担保欄まで、定規の端はリディアの名に触れなかった。
「ただし、本人が将来、自分の意思で独立した契約を結ぶことを禁じる記載ではありません。今日、家の債務から切り離すだけです」
「はい」
父の借金は減らない。六百三銀貨の数字も、年三十六銀貨の利息も、二つの担保もそのままだった。
オズヴァルトは残った数字を見たまま、署名欄のない自分の手を膝へ戻した。リディアは六百三の末尾まで目で追った。
確認官二人が同じ文面へ別々に署名し、中央台の封へ組合印を重ねた。父の放棄書、リディアの放棄書、債権範囲確認書は、それぞれ違う灰色の袋へ入った。記録官は三つの受理番号だけを一枚の索引へ並べ、原本を同じ袋にまとめなかった。
「これで、家長側の三項は終了です」
記録官が言うと、オズヴァルトは右手を台から下ろした。押したばかりの蝋には、家門の翼が冷えていた。
「最初から、そうしておくべきだった」
言葉はそこで途切れた。リディアは自分の受理札を取り、席を立った。
第4鐘、記録室から二筋離れた印章工房で、親指ほどの真鍮印が布の上に置かれた。印面には二行だけある。
リディア・エルンスト。
本人。
資格章も家門の紋もなかった。工房主が試し蝋へ押し、姓名の末尾まで欠けていないことを鏡で見せた。最初の一押しは右端が薄く、工房主は台を回して、親指を置く場所だけを教えた。二度目は「本人」の二文字まで均等に沈んだ。
「力ではなく、真上からです」
「はい」
リディアは受領簿へ署名し、注文時に代金を納めていた控えを受け取った。布に包んだ印は、書類鞄の内ポケットへ入れた。
家へ戻ると、父は書斎の棚から家門印を取り出した。黒い石の印は父の掌より幅があり、柄にはリディアが幼い頃、指でなぞった翼の溝が残っている。
「これは家の金庫へ戻す」
「はい」
オズヴァルトは家門印を金庫の内箱へ置き、鍵を閉めた。鍵輪は自分の腰へ戻した。リディアは真鍮の本人印を革袋へ入れ、旅用の衣装箱の底ではなく、上着のすぐ下へ収めた。
それから旧東室の鍵を卓上へ置いた。父はすぐには取らなかったが、リディアが手を引くと、鈍い鉄鍵だけが二人の間に残った。やがて父はそれを家門印とは別の鍵輪へ通した。
第5鐘前。旧東室には、衣装箱一つと手提げの書類鞄だけが残っていた。
リディアは普段着三組、下着、外套、仕事靴を詰めた。母の刺繍布は窓辺の小箱へ戻した。白糸で縫われた蔓は途中で切れ、続きの糸が針に通ったままになっている。
転送対象は本人宛て郵便だけで、届出先は民事院の私書箱だった。
衣装箱を廊下へ出し、リディアが書類鞄を肩へ掛け直すと、オズヴァルトの手が革の取っ手へ伸びた。
「ここからは、自分で持ちます」
父の手は途中で止まり、脇へ下がった。革の取っ手はリディアの手に残った。
「ヴァルハルトでは」
夕刻の荷車が門前を通り、車輪の音が父の声に重なった。
「着いたら、民事院の私書箱へ住所変更を出します」
リディアは衣装箱の革取っ手を持ち、鞄を肩へ掛け、磨り減った仕事靴で敷居を越えた。幼い日に母の裾を踏んで転んだ木目も、帰宅のたび無意識に避けてきた傷も、足の下を一度で過ぎた。
振り返らず、発着通りの公共旅籠まで歩いた。第5鐘の閉扉前、受付台へ三十一銀貨を置く。一夜分二銀貨。翌朝のヴァルハルト行き通常馬車と、街道宿二夜、道中の定額食事を合わせて十二銀貨。受付係はリディア本人の名で二つの札を作り、残り十七銀貨を返した。
小部屋へ衣装箱を置いた。
翌第15日、第1鐘。旅籠の発着庭に来た六人乗りの通常便には、すでに商人夫婦と籠職人が席を取っていた。御者が本人名の札を一枚ちぎり、リディアへ窓側の番号を渡す。
彼女は鞄を胸に抱え、自分の席へ乗った。馬車が動き出すと、本人印は衣装箱の中で揺れ、家門印は音の届かない家金庫に残った。




