第六十話 王都に届いた辺境の光
リディアの回答書が王都治癒院に届いた三日後、小さな再祈願が行われた。大広間ではない。貴族席もない。
金の覆いも、楽団も、祝辞もない。場所は治癒院の一室だった。寝台は五つ。
患者の名は、祈願前に一人ずつ読み上げられた。年齢、症状、昨日の眠り、薬水を飲めた量、熱の上がり下がり。院長が確認し、看護係が記録し、神官が復唱する。セレスティアはその場に立っていた。白い祈祷衣ではなく、袖の短い実務用の衣を着ている。裾は広がらず、歩きやすい。飾り紐も少ない。
神官長は渋い顔をしたが、今日は止めなかった。止められるだけの理由が、もう彼にはなかった。
「第一段、始めます」
院長が言う。セレスティアは頷き、両手を胸の前で合わせた。祈りは小さかった。
大祭の日に広間を満たした光とは比べものにならない。けれど、その小さな光は床下の副路を急がず進み、寝台の一つへ届いた。熱で眠れていなかった子どもの呼吸が、少しだけ深くなる。母親が口元を押さえた。
「続けないで」
院長がすぐに言う。セレスティアは手を止める。看護係が体温を測り、薬水を飲ませ、布を替える。
記録係が書く。第一段、呼吸やや安定。発熱なし。副路異音なし。次の寝台へ移るまで、部屋は待った。
待つことが、祈りの一部になっていた。二段目、三段目と進む。全員が劇的に治るわけではない。
傷は残る。熱も、すぐには完全に引かない。それでも、看護係が布を替える回数は少し減り、眠れなかった子どもの手から汗ばんだ握り布が落ちた。記録係は、届いた、とは書かなかった。
代わりに、眠れた時刻と、薬水を飲めた量と、発熱が戻らなかった時間を書いた。セレスティアは最後の患者の記録を見届け、水杯を両手で受け取った。彼女の顔には疲れがある。
だが、大祭の日のような孤独はなかった。院長が静かに礼をする。
「本日の祈願は、届きました」
その言葉に、セレスティアの目が潤む。
「リディア様の手順があったからです」
「手順を守ったのは、あなたです」
院長の返事に、彼女は何も言えなかった。王都の広場では、その小さな再祈願の話がすぐに広がった。大祭のような華やかな話ではない。
五人の患者のうち、三人がよく眠れた。一人の熱が下がった。一人は変化が少なかったが、悪化しなかった。
そんな地味な報せだった。けれど、王都の人々はその地味さに耳を傾けた。大きな灯が空を照らすより、寝台のそばに届く小さな灯の方が、今は信じられた。
王宮にも報告は届く。ユリウスはそれを読み、長く黙っていた。成功と呼ぶには小さい。
だが、大祭よりも確かだった。
「ヴァルハルト領へ、正式な照会団を送る」
彼はようやく言った。神官長が顔を上げる。
「調査ではなく、照会でございますか」
「今さら調査だけでは足りない」
ユリウスの声には、以前のような断定の強さはない。代わりに、苦い自覚が少し混じっていた。
「王都が何を失ったのか、こちらから聞きに行く」
その言葉を聞いた書記は、進行表の余白へ「照会」と書いた。調査ではなく、照会。たった二文字の違いを、ユリウスはしばらく見つめていた。
同じ頃、ヴァルハルト領の祝福記録局では、治癒院からの報告が読み上げられていた。五人分の記録。届いた祈り。
届かなかった箇所。次に直すべき線。リディアは最後まで聞き、そっと紙を閉じた。
「よかった」
それ以上の言葉は出なかった。リディアは報告書の端に、次回確認とだけ書き足した。喜ぶにはまだ早い。だが、悪化しなかった一人の欄に、ミナが小さな丸をつけている。アレクシスが窓の外を見る。
辺境の夕方は、今日も静かだった。井戸の灯、治癒所の灯、学校の灯、街道の灯。それぞれは小さい。
けれど、誰かの暮らしに届いている。
机の上には、ヴァルハルト領の記録が積まれている。領民の証言。治癒所の台帳。
学校の文字札。商会の保証書。そして、届いた祈りの報告。
リディアは届いた祈りの報告を、治癒所の台帳ではなく、祝福記録局の新しい棚へ入れた。棚札にはまだ何も書かれていない。エリオが筆を持って待っている。
「何と書きますか」
リディアは少し考えた。王都救援。辺境成果。
どちらも違う。彼女は小さな紙片に、ゆっくりと文字を置いた。
「届いた祈りの記録」
エリオはそのまま棚札へ写した。そこへ、王都から次の封書が届く。正式照会団の派遣予告。そして、リディア本人への出席要請。ガルドが封の厚みを指で弾いた。
「軽い紙のくせに、面倒そうな音がする」
「音で分かるのですか」
ミナが呆れた顔をする。
「だいたいな」
短いやり取りに、リディアは思わず息を漏らした。笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。エリオが棚札を置き、封書へ目を戻した。
「また始まりますね」
「はい。ですが、今度は一人ではありません」机の上には、領民の証言、治癒所の台帳、学校の文字札、商会の保証書、そして今しがた棚に入れた王都治癒院の報告がある。封書を開く前に、アレクシスが言った。
「読むのは、茶を淹れてからでいい」
「急使の封書です」
「だからこそ、座って読む」
リディアは封蝋に手をかけたまま止まり、頷く代わりに椅子へ戻った。棚に並んだ紙と、机を囲む人の手が、返事を急がせる封書を少しだけ待たせていた。
椅子の脚が床をこすり、短く鳴った。
急使はその音で少しだけ姿勢を正す。リディアは封を開ける前に、机の上の水杯を皆の手が届く場所へ寄せた。
出席要請の宛名は、契約官ではなく『リディア・エルンスト嬢』だった。




