王太子殿下の名で、七灯をともす
ユリウスは、羽根筆の先を墨壺に浸し、引き上げて、また拭った。
王太子の名を書く墨は、艶が揃っていなければならない。玉座の詔に並べても見劣りのしない、濡れた黒繻子のような艶が。
夏至の大祭まで、あと二日。執務室の窓は朝から開け放してあるのに、入ってくるのは蒸した風ばかりだった。侍従が扇を動かすたび、卓の上の紙の端が持ち上がる。
院長が持ってきた、大祭の命令書だ。
厚い紙で、縁に金の箔が押してある。一枚目の一行目には、もう文が入っていた。
――王太子ユリウスの名において、大広間の七灯を再びともす。
その上に、署名の欄が一つ空いている。命令書のいちばん上。どの字より先に目に入る場所だ。
「殿下の大祭でございます」
院長は卓の向こうで、穏やかに頭を下げた。
「陛下がお床を離れられない夏に、殿下が灯をお戻しになる。国じゅうがそれを見ますよ。……少しお痩せになりましたね。昨夜は、きちんと召し上がりましたか」
ユリウスは答えなかった。答える必要のない問いだった。
筆を構えたところで、手が止まった。
署名とは、誰かが見ていてこそ署名ではないか。父上が詔に筆を入れるとき、その場には必ず廷臣が居並んでいた。人知れず書く名など、裏地に縫いこんだ刺繍と同じだ。誰の目にも触れない。
「待ちたまえ」
筆を置いて、侍従を振り向いた。
「廷臣を呼びたまえ。手の空いている者は皆だ。大祭の命令書に、私が名を入れる。それを見ずに夏至を迎える者がいてよいはずがあるまい」
院長が、ほんのわずかに眉を上げた。それからすぐに、慈しむような顔に戻った。
「よいお考えです。皆、喜びましょう。暑うございますから、あまり詰めこんではいけませんよ」
廷臣たちは、半刻のうちに執務室を埋めた。
財務の長が、典礼の長が、近衛の副官が、汗を拭いながら壁際に並ぶ。入りきれない者は扉の外から首を伸ばしている。
ユリウスは、彼らの顔を見渡した。名を覚えている者は一人もいない。覚える必要もなかった。役目を呼べば、役目が返事をする。
筆をもう一度、墨に浸す。
書いた。
一画目を、紙の端まで届くほど大きく。王家の者だけに許された、跳ねの長い書き方で。最後の一画を払ったとき、袖口の金糸が差しこむ日を拾って、名の上に細い光の筋を落とした。
墨は乾ききらず、濡れて光っていた。一行目の文よりも、縁の金箔よりも、その字がいちばん大きかった。
悪くない、と思った。いや、悪くないどころではない。
この紙を、今すぐ父上の枕元へ届けさせようか。いや、大祭の夜に、七つの灯と並べてお見せするほうが映える。
玉座の詔にも、これほど堂々とした名はなかったのではないか。
「王太子殿下、万歳!」
誰かが声を上げ、ほかの者が続いた。拍手が壁に当たって、天井でもう一度鳴った。
ユリウスは筆を置き、立ち上がって、その音を浴びた。肩の上に、厚い金襴の外套を一枚掛けられたような心地だった。
喝采の切れ目に、ふと思い出して言った。
「そういえば、北の女が王都へ戻ってきたそうだな」
部屋が、半拍だけ静かになった。
「院長様のお手配が回っております、殿下」
典礼の長が慌てて答えた。ユリウスは手を振った。
「ならばよい。大祭の前に、余計な影が差すのは困るではないか」
昼前、大広間で試しの点灯が行われた。
大祭の二日前に、灯を一つだけともしてみせる。それだけの場だが、廷臣たちは祝宴の日のように着飾って集まった。
ユリウスは段の上に立った。背後に、七つの硝子の灯が並んでいる。冬の終わりのあの夜から、段の上の第一の灯は黒いままだった。
廷臣たちのあいだで、ひそひそと声が交わされていた。聖女候補様は、まだ行列の先導をお受けにならないそうで。
「先導、先導と。二日後には、セレスティアも頷いているだろう」
言い捨てて、前を向いた。今日は、そんな話をする日ではない。
ユリウスは、灯の台のすぐ前へ半歩ずれた。ともったとき、その光をちょうど背に受ける場所だ。
院長が段を上がってきた。灯の台の脇に立てかけてあった棒を手に取る。握りに銀を巻いた、細い棒だ。
「殿下のお名前で」
穏やかにそう言って、棒の先を第一の灯の硝子の下へ差し入れた。
廷臣の誰かが、こらえきれずに咳をした。
それから、硝子の芯に、色がにじんだ。
薄い琥珀が、内側から満ちていく。満ちて、溢れずに留まる。冬の夜から黒かった硝子が、蜂蜜を透かしたような色に戻った。
大広間が、どよめいた。
執務室の比ではない喝采が、大理石の床から湧き上がった。
ユリウスは胸を張った。
「殿下、お顔が火照っておられますよ。段の上は熱がこもりますからね」
院長が袖のうちで囁いたが、耳には入らなかった。二日後には、これが七つ並ぶ。病床の枕からも見えるだろう。王の器だと、父上はそう言うに違いない。
段の上からは、高い窓の向こうが見える。丘の下に、低地の屋根がひしめいている。運河が、細い銀の糸のように光っていた。
その通りで、人が座りこんでいた。
一人ではない。市場の通りに並んでいた豆粒のような人影が、いっせいに腕を抱えて、石畳の上に崩れていく。夏の昼の、白く照りつける通りで。
ユリウスは、それを見た。
背後で、拍手はまだ続いていた。
ユリウスは窓に背を向け、喝采の方へ顔を向けたまま言った。
「この暑さだ、下の者がへばるのも無理はあるまい。院に申しつけて、低地に水を配らせたまえ。たっぷりとな」
同じ刻、リディアは低地の運河沿い、マーラの店先の陰にいた。
表の柱には、まだ院の札が貼ってある。だから日なたへは出られない。氷の溶けかけた台の端から、通りを見ているだけだった。
魚を選んでいた女が、籠を落とした。
隣の男も、その向こうの子どもも。誰かが合図をしたように、人々がいっせいに自分の腕を抱えて、石畳に膝をついた。歯の鳴る音がする。陽炎の立つ昼に。
すぐ前で膝をついた女の手首に、灰色の輪が覗いていた。ヨナスの手首と同じ色だ。瓶を飲んだ人だと、それだけで分かった。
「出るんじゃないよ、北の姉さん」
マーラの手が、肩を店の奥へ押し戻した。
リディアはその手の下から身を低くして、店の前の溝の格子に右の指を当てた。
鉄が、冷たかった。
座りこんだ人たちの手首から、細い線が一本ずつ、格子の下へ潜っていく。それが水の音の下で、ほかの通りから来た糸と撚り合わされて、引かれていく。丘の方へ。
丘の上の、大広間へ。
指先に来るのは、引かれていく向きと、冷たさだけだった。
――よくも、こんな昼に。
「十四人。まだ増える」
店先の陰で、アレクシスが言った。通りから目を離さずに。
「ええ。増えます」
格子から指を離すと、指先が白くなっていた。アレクシスの手が、それを包もうとするように一度だけ動いて、途中で止まり、自分の外套の端を握った。
「行き先は」
リディアは、丘を見上げた。
「七つ、全部です」




