一本を切る夜
昼食籠は来ていない。継ぎ革のある足跡は、濁水へ入っている。
ガルドは二つを確認し、上岸通常路を走った。足跡が消えた後は、折れた草と水の向きだけを見る。流れは季節流路から道へ乗り、低い石垣へ当たって二手に分かれていた。
「籠!」
ヨハンの声が下流から返った。蓋の留め具が枝へ引っかかり、中身だけが水に浸かっている。リナの姿はない。
ガルドは籠より先の支柱を見た。折れた横木の上に、小さな両手が掛かっている。革を継いだ長靴の片方は水の中で、もう片方は支柱の根元に挟まっていた。
「リナ。顔を上げろ」
「お父さんは」
「後ろにいる。そこを離すな」
水位は横木のすぐ下まで来ていた。水番が上流目盛を読み、増水の頂点まで半刻と叫ぶ。次の上がりで、横木は水を正面から受ける。
ガルドは人を数えた。操作訓練を受けた者は六人。可搬巻上機は一基、乾いた主綱は一本だけだった。
無傷の低地犠牲放流水門では、六人が巻上機と主綱を使い、門を閉じた位置へ保持している。ここを守れば、別流路の先にあるフリーダの家、種麦倉、畑へ水は落ちない。その代わり、リナ側に溜まった圧も水位も残る。
「三人残せ。三人で救助へ回る」
ガルドは最初の指示を出し、主綱を三人に持たせた。巻上機の歯止めが一つ浮き、門板が指一本ぶん押し戻される。三人では保持できない。
「救助用の乾いた縄は」
水番が濡れた補助縄を持ち上げた。泥を吸い、掌で引くだけで撚りがずれる。子どもと成人二人の荷重を、切り立った岸で受けられる状態ではなかった。
六人を分ければ、門も救助も外れる。ガルドは主綱を元へ掛け直し、全員を数え直した。
「フリーダ一家を高地へ。半刻より前に出せ」
領会計吏が走ってきた。アレクシスの事前記名がある成人代理票を見せ、救助票とは別の用紙を石壁へ留める。
ガルドは避難と救助指揮の欄だけへ署名した。財産の用紙にはペン先を触れなかった。
「低地門を開ける。家、倉、畑を放流路に入れる」
会計吏は財産犠牲と補償起票の時刻を別紙へ書いた。支払額も受領済みの印も、まだ空白である。
フリーダは家族を坂へ上げながら、半分だけ葺いた屋根を指した。新しい板の端を押さえていた石が、水の震えでずれている。
「倉だけではありません。あの家と、下の畑もです。棚の袋は飼料じゃない。一年分の種麦です」
会計吏が記載を直す。フリーダはそれを見届けると、もう一袋を持ち出そうとして倉へ向きを変えた。
「戻るな」
ガルドの声に、彼女は止まった。袋へ伸ばした両手だけが、戸口の高さに残る。
「あと二袋は上へ出せる」
「人が先だ。全員、石段より上へ」
フリーダは戸口に立つ夫の腕をつかみ、子どもを前へ押す。最後に倉を振り返り、開いたままの扉の位置を会計吏へ示した。
増水頂点まで、四半刻を切った。水番の目盛棒は、さっきより指二本ぶん深く沈んでいる。
ガルドは低地門の巻上機へ戻り、六人の顔を一人ずつ見る。全員の手が、一本の主綱に掛かっていた。
「保持を捨てる。合図で綱を外せ。放流を見てから、同じ機材を救助点へ運ぶ」
誰も主綱から手を離さないうちに、彼は閉鎖保持の掛け金を自分で上げた。六人が綱を送り、無傷の門板が水圧に押されて開く。
水は低地の別流路へ落ちた。最初の波が畑の畝を平らにし、次の波がフリーダ宅の敷居を越える。種麦倉の開いた扉から濁水が入り、高棚の下段にある袋が一つずつ色を変えた。
同時に、リナの横木を洗っていた水が下がり始めた。水面から出た木肌が、掌の幅だけ広がる。
「巻上機を外せ。六人とも救助点へ」
同じ一基を台車へ載せ、同じ主綱を巻き直す。六人のうち二人が先に岸の固定杭を選び、残り四人が巻上機の脚を石へ噛ませた。予備の班は来なかった。
ガルドは主綱の端を腰へ回した。水へ入ると、腿から上の熱が一息で奪われる。横木へ寄せた時には波が胸を越え、顔まで泥水を被った。流れは低くなっても、足元の石を隠す濁りは残っていた。
「目を閉じるな」
「靴が抜けない」
「足は置いていけ。腕を寄こせ」
リナの片腕を自分の腰綱の内側へ入れ、もう一方を胸へ抱く。横木が背中で折れた。
「引け!」
六人が巻上機を回した。主綱が張り、ガルドの腰を後ろへ引く。二度、靴底が川床から離れた。三度目で岸の手がリナの肩へ届き、ヨハンが娘を外套ごと抱え取った。
成人医療責任者はリナの呼吸と手足を確かめ、乾いた布で包んだ。生きているとだけ言い、その先の身体についてはまだ書かなかった。
低地では種麦袋が棚から落ち、倉の戸枠と片側の壁が水へ外れた。家の土台も泥を吸って傾き、畑の畝は見えない。フリーダは高地から一年分の袋、倉、家、畑の順に訂正し、会計吏は濡れた物と流れた物を分けて記す。補償票に支払印はなかった。
ガルドは救助時刻へ名を書こうとした。指が震え、最初の一画が紙を外れる。
「氏名を」
「ガルド・ノイン」
「時刻」
「第3鐘前」
答えは言えた。けれど、全身に貼りついた外套の留め具を外そうとしても、指が曲がらない。医療責任者が彼を治療室へ運ばせた。
寝台へ移された時、境界門の外で馬車が止まった。旅程票を持つローヴェンが先に入り、その後ろに、三日分の旅埃を袖へ残したセレスティアが立っていた。




