退団願の、白い欄
「閉めたよ」
サラの返事は、ベルトが「戸を」と言い終えるより先に、もう部屋の中にあった。
二度目だった。荷台の上で一度訊かれ、ここへ運び込んでから、もう一度。
城下の仕立屋の奥の部屋は、作業台と端切れの棚を壁際へ押しやり、寝台を一つ入れただけで、いっぱいになっていた。作業台の上には、待ち針を刺したままの布地が畳んである。誰かの冬の外套になるはずだった布だ。
ベルトは返事を聞くと、また目を閉じた。薄く開いた唇から、浅い息が出たり入ったりする。
薬師のミナが、左の脇腹の布を剥がした。新しい布を当てる。
「押さえる」
リディアは言われた場所に、両手を重ねた。
布の下で、温かいものがゆっくり広がっていく。押さえても、押さえても、手のひらの下から逃げていく。腹の中で切れたものは、外から押す手では届かない所にあるらしかった。
線なら読める。結び目なら、ほどける。けれどこの部屋の床下には、銀の糸が一本も走っていない。重ねた両手の下で、布だけが重くなっていく。
「湯」
リディアは盥を抱えて、台所へ走った。
竈の鍋は煮え立っていた。取っ手を掴むと、熱さが冷えた指に針のように刺さる。それでも離さなかった。熱いものを持てない手だなどと、今夜だけは言っていられない。
湯を盥に移し、戻る。布を絞って渡す。汚れた布を受け取る。ミナの手元が暗いと見れば、燭台を寝台の際まで寄せる。
「布」
ミナが振り向きもせずに手を出す。リディアは絞った布を、その手のひらへ載せた。ミナは礼も言わずに、それを脇腹へ当てた。
私にできることは、これで全部だ。全部やっても、足りない。
足りないと分かっていて、また台所へ走った。
部屋の隅では、北の神殿の子のネルが、薬箱を両腕で抱えて座っていた。ミナの使い走りで、箱を運んできたのだ。十歳の膝が、箱の重みで細かく揺れている。
「先生」
小さな声だった。リディアは振り向いて、首を横に振ることしかできなかった。何の「いいえ」なのか、自分でも分からないまま。
ネルはそれきり黙って、箱の留め金を指でなぞり続けた。
寝台の脇の椅子に、サラが座っている。片手でベルトの手を握り、もう片方の手は膝の上で、何も持たずに置かれていた。
泣いていない。目は、夫の口元から離れない。
夜半、ベルトがまた目を開けた。
焦点の合わない目が、天井の梁を一本ずつ数えるように動く。それから、乾いた唇がゆっくり開いた。
「戸を、閉めたか」
一つずつ、確かめる声だった。
「閉めたってば」
サラが、握った手を揺すった。
「表も、裏も、窓も、竈の蓋も。あんたの言う順番で、全部」
ベルトの目が、ようやく妻の顔を探し当てた。
口の端が、ほんの少し上がったように見えた。軽口を一つ言う前の顔だ。リディアは、その続きを待った。
続きは来なかった。
表の戸が開き、冷たい風が奥まで吹き込んだ。雪を肩に載せたまま、ガルドが入ってきた。
騎士団長は、寝台の足もとで立ち止まった。口を開ける。いつもなら、ここで何か怒鳴る人だった。寝ろ、とか、食え、とか、いいから黙って休め、とか。
「……ベルト」
それだけだった。
大きな手が、寝台の枠を握った。枠が、みしりと鳴った。
開いたままの戸口の向こうに、黒い外套が見えた。アレクシスはそこに立ったまま、敷居から先へ、一歩も入ってこられなかった。
ベルトの息が、間遠になった。
吸って、長く途切れて、また吸う。途切れているあいだ、部屋じゅうの誰もが、自分の息まで殺していた。
ミナが手首に指を当てた。しばらくそのままでいて、それから、そっと手首を寝台の上へ戻した。何も言わずに、薬箱の蓋を閉めた。
ネルが泣き出した。
声を上げて、子どもの泣き方で泣いた。息を吸うたびにしゃくり上げ、しゃくり上げるたびに声が大きくなる。リディアが肩を抱いても、止まらなかった。止めなくていい、とリディアは思った。
ガルドが、踵を返して出ていった。
少しして、店の裏から鈍い音がした。壁を、拳で打つ音だった。一度、二度、三度。名を呼ぶ声が、それに混じった。
サラは、夫の手を離さなかった。
盥の湯は、すっかり冷めていた。
リディアはそれを抱えて、裏口から外へ出た。雪はやんで、星が硬く光っている。
ガルドは、店の裏の板壁の前にいた。外套も着ずに、拳を壁に打ちつけている。板が鳴るたびに、軒の雪がぱらぱらと落ちた。拳の皮は剥けて、板には赤い跡がいくつもついていた。
「ベルト!」
怒鳴り声が、静まった通りの向こうまで響いた。リディアの方は見もしない。見えていないのかもしれなかった。
リディアは湯を、足もとの雪へ空けた。湯気が白く立って、すぐに消えた。
止めなかった。止める言葉を、一つも持っていなかった。この人が怒鳴れる相手は、今夜はもう、この壁しか残っていない。
「ベルト! ……ベルト!」
二度目の声は、途中で掠れた。それでも拳は止まらなかった。名前のほかには、何も出てこない声だった。
リディアは空の盥を抱え直して、裏口へ戻った。戸を閉める前に、肩越しに振り返る。
閂は、掛けずにおいた。
夜明け前になると、ネルは泣き疲れて、薬箱を抱いたまま眠っていた。ミナが自分の外套を掛けてやり、黙って薬瓶を数え直していた。
リディアは燭台の芯を切り、新しい蝋燭に火を移した。冷めた盥の湯を、温かいのに替える。替えても、もう使う人はいない。それでも手を止めると、立っていられない気がした。
サラが、椅子から立ち上がった。
作業台の針山から、針を一本抜く。糸は通さない。そのまま寝台の脇へ戻り、針を指のあいだに挟んだまま、じっと夫を見下ろした。
縫う気配はなかった。針を持つ手が、宙に浮いたままだ。
ベルトはまだ、騎士団の上着を着ていた。脇腹のところはミナが鋏で裂いて、布が垂れている。袖口は、いつものように手首の骨の上で終わっていた。
サラの、針を持っていない方の手が動いた。
袖口をつまんで、そっと引く。短い袖が、手首の骨を越えて、その下まで伸びた。もう片方の袖も、同じように引き下ろす。
それから、袖口からほつれて垂れた糸を、指先で裏へ押し込んだ。一本、また一本。縫えないなら、せめて見えないところへしまう手つきだった。
仕立屋の手が、上着の胸元をなぞった。表を整え、胸の裏地の縫い目に触れたところで、指が止まった。
そこだけ、布が少し厚い。
リディアは覚えていた。北へ来てまもない晩、詰所の食堂で、ベルトが上着の胸を裏地の上から叩いていたのを。
サラは針の先で、裏地の縫い目を二目だけほどいた。中から、四つに畳んだ紙が出てきた。端が擦れて、少し丸くなっている。
サラはそれを開かずに、リディアの方へ差し出した。
リディアは受け取って、灯の下で開いた。サラが横から覗き込む。二人で、同じ紙を見た。
退団願
北の騎士団 副団長 ベルト
右の者、雪が解けしだい退団いたしたく、ここに願い出るものであります。
理由 妻の店にて、袖を測るため。
几帳面な字だった。最後の行だけ、少し大きい。
その下に、団長の返事を書くための欄があった。罫だけが引いてある。
壁の釘には、灰茶の新しい上着が掛かったままだった。サラが測って縫った袖は、ちゃんと手首の下まである。
サラは泣かなかった。紙の端を指でつまんで、もう一度、最初から読んでいた。
リディアも泣かなかった。灯が揺れないように、燭台の脚を手で押さえていた。
窓の外が、少しずつ白んでいく。
返事の欄は、最後まで白いままだった。




