ベルトの名前
サラが治癒倉庫へ来た時、右手に裁断用の白墨を握ったままだった。夏第6月第4日、最後の夜鐘の前。店から走ってきたのか、片方の靴紐がほどけている。事故記録を抱えたリディアの隣で、ミナが右胸の傷と処置、今夜を越せない可能性を話した。サラは返事をせず、白墨を前掛けのポケットへ押し込んだ。
「会えますか」
「今は目を開けています。話すなら短く」
寝台の脇にはガルドがいた。ベルトの胸から出した管へ、暗い血が少しずつ落ちている。右下胸は厚い布で覆われ、呼吸のたび、傷のない左側だけが大きく上がった。
リディアは寝台から最も遠い壁際へ立った。サラは椅子へ座らず、ベルトの右手を取った。
白糸で直した手甲は、外す時に手首を切られていた。内側の店札は煤で黒くなり、返却期日の文字だけが読める。サラは切れた革を指で挟み、ベルトの顔を見た。
「見本を、こんなにしたの」
ベルトの口がわずかに動いた。声になるまで待つ。
「洗えば」
「油火は落ちない」
ベルトは息を吸い直し、目を閉じた。
「ヨナスと、エルクは」
ガルドが、二人とも手術を終え、命は助かる見込みだと答えた。ヨナスは指を動かせた。エルクの脚も血が通っている。
「そうか」
ベルトの肩から力が少し抜けた。サラはその変化を見届けてから、ガルドへ尋ねた。
「あの人に、囮になれと命じたんですか」
「命じていない。止めた」
ベルトの指が、サラの手の中で動いた。親指だけが、握られた掌を一度押した。
「俺が、行った」
三つの言葉だけで呼吸が崩れた。ミナが寝台へ寄り、もう話させないよう手を上げる。サラは返事をせず、手甲の縁を握った。
しばらくしてベルトの息が戻ると、彼女は前掛けから白墨を出した。走る途中も離せなかったらしく、掌に白い粉がついている。
「秋の注文、六軒だと思っているでしょう」
ベルトが目だけを向けた。視線の先で、白墨の粉がサラの前掛けに残っていた。
「七軒。昨日、マラさんの窓掛けが増えた。裁断台の脚も、まだ直していない。あなたが入るから、大きい台を頼んだの」
声が途中で低くなった。サラは唇を噛み、次の言葉を息にして押し出した。
「帰るって紙まで出したのに」
ベルトは何か答えようとした。息だけが喉で鳴り、音へ変わらない。サラは椅子を寝台へ寄せ、取った右手を離さず、呼吸の間隔を一緒に待った。
リディアは、事故記録へ本人の発話を入れるため聞き取り票を持ってきていた。聞こえたのは、七軒の注文と、直していない裁断台だった。紙を開かず、ミナへ預ける。
ベルトの意識は、その後二度戻った。一度はヨナスの名を呼び、もう一度は何も言わず、サラの前掛けについた白墨を見た。夜明けの鐘楼で綱を引く音がした頃、脈が急に細くなった。
ルッツが胸の管と呼吸を確かめ、ミナが手首を取る。薬を増やしても裂けた血管は閉じない。契約線で体内を縫う許可も、できる術式もなかった。
夜明け前、ベルト・ハーゲンは死んだ。
ルッツが時刻を記し、ガルドが勤務中死亡の確認欄へ署名した。死亡記録には、退職願を夏第5月第13日に受理、夏第6月末退職予定、と転記した。
サラはすぐには事故室へ行かなかった。切られた手甲をベルトの手から外し、店札と白糸を小さな布へ包む。洗身係が制服を脱がせようとすると、右胸の布と、抜いた矢じりを外部の医師が見るまで捨てないよう頼んだ。血のついた上着は洗わず別袋へ入れ、葬送に使う正装は家から持ってくると言った。
騎士団の儀礼係が白馬と隊旗の申請用紙を持ってきた時、サラは隊旗の欄を空けた。用紙を返す手は、もう震えていなかった。
「店から送ります。道は、あとで決めます」
英雄葬の欄にも印を置かなかった。配偶者欄へ自分の名と店の住所を書き、秋から入るはずだった労働と七軒の注文を、生活損の添付へ足す。
第1鐘が鳴ってから、彼女は一度店へ戻った。弟子に、今日の受け取りを午後へずらす札を六軒へ届けさせる。七軒目のマラには、自分で行くと言って札を残した。大きい裁断台の片脚には、ベルトが測るはずだった高さの線だけが白墨で引いてあった。
サラが城へ戻ったのは、第2鐘を過ぎてからだった。事故室では、書記が死亡報告の表題を「南方護送任務中殉職報告」としていた。サラはその文字を一度読み、受理済みの退職願を真下へ置いた。
「これは補償上の定型です」
書記は綴じ穴へ指を置いたまま説明した。サラが退職願から目を上げるまで、その手を動かさなかった。
「退職願の受理日と、原因別紙を続けてください」
書記が綴じ穴を増やす。サラは次に、原因欄の余白へ短い問いを書いた。
到着時刻を公開した者、替馬を見て運行を勧めた者、運送を選んだ者、護衛を実施した者、越境騎手を知らせなかった者、それから、囮を自分で選んだベルト――それぞれの名と時刻はどこか。
文章にはなっていなかった。同じ大きさの字でもなく、最後の行は白墨のついた指で擦れている。
リディアは自分の勧告書を出した。三件目の替馬抄を受けた時刻も、署名の横に残っていた。
「替馬の三件目を見たあと、条件を増やして進むよう勧めました。公開表にも、私は賛成しました」
「知っています」
「待たなかった結果を、謝ります」
サラは返事をしなかった。リディアの紙を受け取り、原因欄の最初へ綴じた。
アレクシスの未共有記録、ガルドの延期勧告と護衛実施、カミラの運送選択、ベルト本人の発話票も、それぞれ別紙のまま付けた。サラは一つの原因文へまとめず、外してはならない紙の端に自分の印を置く。
領内の事故処理欄には、領評議会の宛先が先に印刷されていた。サラはペンでそこを横切り、印刷された文字が読めなくなるまで線を重ねた。
新しい宛先に、王国監査局、と書く。要求欄は、原因調査、記録保全、生活損と補償の算定。
署名の前で、白墨を握っていた指が止まった。やがてペン先を下ろし、サラ・ハーゲン、と記す。店の住所と、ベルトとの続柄を添える。第3鐘の時刻を記した書記が、外部便の封筒を差し出した。
サラは夫の名が表紙にあることを確かめ、自分で封を閉じた。




