領主の担保
不足の銀貨四十八枚をアレクシスが出しても、荷車はまだ一歩も北へ動かなかった。
南荷出し所の事務室で、カミラは残金百二十枚の欄を指した。前払い百八十枚の欄には触れなかった。
「個人で立てるのは前払いの不足分だけですね。受領後の支払いには、何を置きますか」
「公爵家の秋税収を」
カミラは最後まで読まなかった。会計吏が出した案を、その手元へ返した。
「東石橋の補償にも同じ税収が入っています。南方商会が差し押さえる時、露店主と争う担保は受けません」
窓の外で、御者たちが三台の覆いを締め直している。雨は朝から細く降り続け、屋根の雫が樽の縁を一定の間隔で打った。第3鐘までに出なければ、第13日の投薬に間に合わない。
リディアは持参した資産表を開いた。候補を一つずつ外した。
南市場の倉札はエリオの試験取引に入っている。北街道の通行料は、橋を失った迂回費へ使う。製粉税は粉価差額と水車補償が先だった。何も傷つけずに出せる百二十枚は、帳面のどこにもなかった。
「騎士団の冬季予備を置く」
アレクシスは黒石のない地図を見た。北詰所までの線へ、四つ分の場所を空けた。
ガルドの椅子が鳴った。
「通常分の燕麦は八台。緊急予備が四台です」
「その四台を三十日、封じる」
「吹雪で北詰所へ増援を出す時は?」
「通常分を先に使う」
「冬が長引けば、帰りの馬が食う分を失います」
ガルドは声を上げなかった。地図へ四つの黒石を置き、北詰所までの往復日数を指で辿る。通常の勤務には足りる。道が閉じた日、別の隊を迎えに出る余りだけが消える。
確認のため、全員で南倉へ移った。机上で数えた価値を、原物でも確かめるためだった。
燕麦は十二台に分け、壁際へ車輪止めを掛けてあった。八台の札には厩名と通常配分日、四台には吹雪・増援と黒字がある。ベルトは黒札を一枚ずつ外し、袋の口を開けた。
一台目は乾いていた。二台目の奥に鼠の齧り跡があり、倉番が二袋を通常在庫と交換する。カミラは最も良い上澄みだけを担保価値へ数えず、十二袋を抜いて査定を下げた。
「百二十枚に届きません」
会計吏が不足を計算する。アレクシスは南倉に置く交換用の馬具金具を追加しようとしたが、ガルドが止めた。
「春の街道修理で使う分です」
「燕麦だけなら?」
「百十四枚」
カミラは燕麦の査定を百十四枚として担保表へ書いた。残金百二十枚には六枚足りず、その差も二次担保で覆うよう空欄を残す。前払い百八十、残金百二十、全体三百枚は動かさなかった。
「数字を合わせるために、使う物まで箱へ入れないでください。こちらも売れない担保は要りません」
カミラは外した馬具金具を、元の箱へ戻した。金具同士が、短く触れ合った。
倉番が黒い封印縄を四台へ回す。領会計の鍵印が先に付き、カミラの南方印がその上ではなく別の留め金へ置かれた。どちらか一方では開かない。ベルトは最後の黒札を外す時、爪で切れた右前腕を一度曲げた。
「この四台を使う命令が出ても?」
「支払いを終えるか、南方商会と解除しない限り出せない」
アレクシスが答えた。ベルトは札を渡し、空いた釘へ冬の運行変更票を掛けた。
カミラは地図の黒石を数えた。四つとも、北詰所までの線上に残っていた。
「燕麦は南でも売れます。封印場所は?」
「南倉。鍵は領会計と南方商会の二本。支払いが済むまで、私も開けない」
「橋が落ちて荷が来なかった場合、残金は受領品に応じて減らします。担保も同額だけ解く。ヴァルハルトが支払えなかった場合だけ、こちらが取る」
「騎士の食料を商会へ渡した後は、領が失うのか」
ガルドの問いへ、アレクシスは別の権利書を出した。南楡林。公爵家の家産で、領会計とは分かれた森だった。
「備蓄が実行された時は、三年の伐採収益を領へ移して買い戻す。領にも戻せなければ、収益権を南方商会が取る」
カミラは林の場所、既存の借入、過去三年の伐採帳を会計吏へ求めた。雨で作業が止まった月まで数えると、年平均は百四十六枚。残金を少し上回る。
個人印を押す前に、アレクシスは公爵家と領会計の欄を分けた。南楡林は彼個人の収益であり、領民の税でも騎士団の所有でもない。家産管理人へ送る写しと、南方商会が差し押さえる際の境界図まで付ける。
リディアは境界図の北端が、昨年補修した見張り台へかかっていないか確かめた。林の収益だけを渡すはずが、軍道の入口まで知らせてはならない。公開図には沢を境として記し、伐採量の監査だけ封印された林班番号で行う。
「二次担保にはなります」
彼女は条件欄へ、領備蓄を先、公爵家収益を後、と順を入れた。二つの担保を、同時には取れない形にした。
ガルドは黒石を地図から戻さなかった。四つのまま、雨道の上へ置いていた。
「薬二箱のためだけに、冬の退路を消すのですか」
「それだけではない」
アレクシスは三台の荷札を見た。その一枚を、自分の側へ引いた。
「王都商会が明日、封鎖を解いても、南の道は残す。薬も布も一つの倉に握らせない」
「今は治癒所の期限を交渉しているはずです」
リディアが言った。アレクシスは頷いた。
「患者を間に合わせる。それに加え、領として別の供給網を得る。私は両方を買う」
「そのために公爵家の森と騎士団の余力を使う」
「そうだ」
契約欄には、治癒所向けの初荷と、南方経路の継続利用が並んだ。アレクシスは二つの項目を順に読み上げた。
リディアは、雇用条件を決めた夜に聞いた「必要だ」という返事を思い出した。
銀筆の留め金を直すふりをして、指を一度離した。彼が次の言葉を続けるまで、ほんの少し待った。
アレクシスは続けなかった。
「担保の期間を三十日で封じます」
リディアは自分から仕事へ戻った。契約紙の期間欄を開いた。
アレクシスは私費の箱から四十八枚を出した。金貨でまとめず、小額銀貨を混ぜている。辺境へ来るたび、橋番や宿へその場で払うための旅費だった。
「帰路の宿代は」
リディアが尋ねた。アレクシスは会計吏を見た。
「今回は領主の移動だ。領会計へ請求する」
「私費を出した後で、公費へ隠し戻さないために書いてください」
会計吏が、私費四十八、帰路旅費は別途、と二行にした。アレクシスは面倒そうな顔をしたが、削らなかった。
ガルドは契約へ賛成とは言わず、緊急予備四台を失う場合の運行表を作った。北詰所の交替を一日短くし、吹雪の時は南巡回を半減する。事故が起きれば、今日の担保まで原因へ残す。
「引き受けます」
彼は契約賛成欄を空けたままにした。署名を置いたのは、冬季運行変更の確認欄だった。
カミラは、三台の所有と受領前損失を南方商会が負うことをもう一度読んだ。天候で失えば彼女の仕入れが消える。道の警告が消えていた場合だけ、ヴァルハルトへ請求できる。
「灯が点いていれば、安全という条件にはしません」
リディアは街道石の図を開いた。橋へ引いた青線の上へ、指を置いた。
「何を保証しますか」
「路肩と橋の測定位置を表示すること。表示が消えた時刻を残すこと。橋を渡れるかは、橋守とガルド様が物理目盛りを見て決めます」
追跡対象は三台の荷札位置と結び目の状態、到着後の検査は濡れまでとした。カミラが荷主欄へ署名した。
次にアレクシスが、南門から石折橋まで、三日間、沿道蓄積の八分の一を上限とする領印を押した。期限を越えれば線は切れる。延長には、橋守の現況と新しい領印が要る。
リディアは二つの署名、開始と終了の時刻、蓄積の目盛りを順に確かめた。それから銀筆で、三台の荷札と街道石を結ぶ。
淡い青が、最初の道標まで伸びた。雨の深さも、橋板の傷みも変わらない。ガルドは外へ出て、御者に車輪間隔と停止笛を教えた。ベルトは斧を二本、前後の荷台へ一本ずつ固定する。右の手甲は借り物で、爪痕の残る腕にはまだ馴染んでいない。
公開保証には、南方商会、治癒倉庫向け、支払い上限三百枚だけが書かれた。時刻と石折橋の名は封じ、関係者の八人だけが読んだ。
第3鐘が鳴った。荷出し所にいた全員が、時刻欄を見た。
カミラは一台目の御者台へ上がり、前払い百八十枚の受領札を外套へしまった。ガルドとベルトが騎馬で前後につく。リディアも二台目の脇馬へ乗った。
南の空で雷が鳴った。止める印は出なかった。
三台の車輪が、許可時刻を越える前に濡れた道へ入った。




