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引き抜きの商人と、昇給する公爵

「給金を倍お出ししても、僕の損にはなりませんねえ。むしろ、安い買い物でしょうねえ」

 城下の宿の食堂で、南の商人は湯気の立つ煮込みをこちらへ勧めながら、そう切り出した。

 昼どきの食堂は、雪靴の荷運びと馬方でいっぱいだった。窓際の卓だけが妙に静かなのは、向かいの男の上着が、北では誰も着ない明るい青だからだ。

「申し遅れました。南の商会のエリオです。川の名前で灯をともした契約官がいる、と峠のこちら側はその噂で持ちきりでしてねえ」

 二日前の夕方、白鹿川に走った一筋の白は、もう宿の炉端まで流れてきているらしい。

 リディアは匙を取った。羊の煮込みが、皿の縁でまだ泡をはじいている。

 湯気の立つ皿の縁に指をかけて、手前へ引き寄せる。そのまま一匙すくった。

「噂では、今のお給金が三十日で銀貨四十五枚だとか。その倍の九十枚を出します。南には、毎日名前を呼ばれる川がいくらでもありましてねえ。一本灯せば、十年は取引が続く。エルンスト嬢の腕は、僕にとって種なんですよ」

 九十枚。どこでそんな噂を拾ってきたのだろう。

 卓の上に銀貨が積み上がるところを、うっかり思い浮かべてしまった。崩れたら、隣の卓まで転がっていく高さだ。

 いけない。ここで目を輝かせたら、値札を首から下げて歩くのと同じだ。

「煮込みが冷めてしまいますので、先にいただいてもよろしゅうございますか」

「どうぞどうぞ。で、倍のお金で何をなさいます? 使い道の決まっていないお金ほど、人を引き止めないものはありませんからねえ」

 匙が止まった。

 使い道。そんなもの、考えたこともない。

「……焼き菓子を、毎日」

「ほう」

「それから、『雪路の配達人』の最終巻を」

 言ってから、自分で驚いた。

 王都の部屋の棚には、一巻から十一巻までが背を揃えて並んでいる。最終巻が出た冬は、院の帳面に追われて、本屋の前を三度とも駆け足で素通りした。

 誰にも話したことがない。それを、会ったばかりの商人に。

 食堂の戸口で、雪靴を床に打ちつける音がした。

 黒い外套の肩に、まだ白いものが載っている。アレクシスが戸口に立ったまま、こちらを見ていた。いつから、そこにいたのだろう。

「これは公爵閣下。ちょうどよかった。今、エルンスト嬢に値をつけていたところでしてねえ」

 アレクシスは椅子を引かず、卓の脇まで来てエリオを見下ろした。

「商人」

 名は知っているはずだ。

「九十枚と聞こえた。九十一出す」

 え。

「閣下、それは」

「北の払いだ。南へ行く理由が減る」

 エリオが、ぱっと身を乗り出した。勘定の始まった顔つきだった。

「では、二枚上げましょう。まだ僕の損にはなりませんねえ」

「三枚上げる」

「張り合わないでください」

 ひどく丁寧な声が出た。二人とも聞いていなかった。エリオの指が卓の上で次の数を数え、アレクシスがそれより先に口を開きかける。

 リディアは、煮込みの皿を持ち上げた。

 熱い皿を、二人の男のちょうど真ん中に、ごとりと置いた。

 湯気が、二人の顔のあいだに白く立ちのぼる。エリオが口を閉じた。アレクシスも閉じた。

「冷めますので」

 匙を皿へ伸ばした。行儀は悪いが、冷めるよりはいい。

 エリオは喉の奥でくっくっと笑い、帽子を取って立ち上がった。

「今日のところは、熱いうちに引き下がりましょう。一度で決まる取引は、一度で終わりますからねえ。エルンスト嬢がまだどこのものでもない今のうちに、また伺いますよ」

「うちの契約官だ」

 低い声が、食堂じゅうに通った。

 荷運びの一人が匙を皿に落とし、馬方が振り返った。言った本人が、いちばん遅れて気づいたらしかった。

 アレクシスの耳が、根もとからみるみる赤くなっていく。外の寒さのせいにするには、この食堂は暖かすぎた。

「九十六枚。覚えておきますよ」

 エリオは帽子を胸に当て、にこにこしたまま出ていった。値札を卓に置き忘れたふりをする笑い方だった。

 残されたアレクシスは、ようやく空いた椅子に腰を下ろした。

「……さっきの数は、取り消さない」

「上げた方も、でございますか」

「どちらもだ」

 リディアは皿を自分の前へ引き戻し、ぬるくなりかけた煮込みを黙って口へ運んだ。今ここで笑ったら、また値が上がりそうだった。


 城へ戻る道で、菓子屋の前に馬車を止めてもらった。

 硝子の向こうの棚に、林檎の焼き菓子が並んでいる。表にまぶした砂糖が、硝子越しに光っていた。

「賭けませんか、契約官さん」

 御者台から、トーマが右手を軽く上げた。

「一つだけ買って出てきたら、俺の負け。二つ目に手を出したら、俺の勝ち。昼の煮込みを、きれいに平らげてたんで」

 見られていた。

「乗ります。私が負けたら、林檎のを半分差し上げます」

「半分? 気前がいいんだか、けちなんだか」

 答えずにいると、トーマは指の欠けた左手で帽子のつばを押し上げ、にやりとした。

「なら乗りますよ。契約官さんの三十日も、残り八日なんで。北にいるうちに賭けとかないと」

 私の三十日が、あと八日。

 一つ。一つだけ。

 包んでもらうあいだに、棚の端の、親指ほどの胡桃の菓子が目に入った。

 あれは林檎ではないから、二つ目には……いや、トーマは林檎とは一言も言っていない。

 違う。あれは閣下の分だ。今朝も雪を見に城の外へ出ていた人の分で、私が食べるのではない。

「それも、一つ」

 口が、勝手に言っていた。

 包みを二つ抱えて店を出ると、御者台のトーマが、膝を一つ叩いた。

「これは、閣下の分です」

「誰の分かまでは、賭けてないんで」

 リディアは包みを抱えたまま、空いた片手で顔を覆った。

 指の隙間から、トーマの得意げな顔が見える。見えなくていいのに。

 観念して包みを開き、林檎の焼き菓子を二つに割った。割れ目がずれて、片方が少し大きい。

 大きい方を御者台へ差し出す前に、こぼれた粉を、包み紙の上へ指で寄せ集めた。

 トーマはそれをつまんで、一口で放りこんだ。

「……うまい」

「賭けは賭けです」

 残った半分を包み直し、紐を二重に結ぶ。トーマが首をかしげた。

「勝ったのに、なんで俺が悪いことした気になるんですかね」


 夜、書斎の窓の外は、雪明かりで青かった。

 リディアは胡桃の菓子の包みを、アレクシスの机の端に置いた。

「お茶請けです。賭けに負けた方の」

 彼は包みを見て、それからこちらを見た。

「昼に聞こえた本の、最終巻は」

 問いの途中で、彼は一度言葉を探した。

「何巻目だ」

「……十二巻目です。全部で、十二巻で」

 アレクシスは何も言わず、机の帳面の端に小さく何か書きつけた。覗こうとすると、荒れた手がその上にかぶさった。

「何をお書きになったのです」

「十二」

 帳面を押さえた手は、表紙の上から動かなかった。

 追及しようとしたところで、アレクシスが椅子を立ち、窓の前まで歩いていった。

 リディアも窓辺へ寄った。

 南の山の黒い背に、橙の点が並んでいる。峠の鞍から麓のほうへ、一本の糸を垂らしたようにつながっている。どの火も、少しずつ下へずれていく。ときどき一つが木立に沈み、また浮かぶ。

「松明……でしょうか」

「峠を越えた荷が、麓へ下りている」

 来ることは知っていた。通達で読んだときは、まだ紙の上の話だった。

 あの荷のどこかに、私に署名させるための紙が、きっと一枚積んである。

 あの列が下りきるまで、峠の小屋へは行けない。母の名が載った台帳は、あの火の並ぶ道の、ずっと上にある。

 アレクシスが、硝子に顔を寄せた。唇が動いている。火を、端から一つずつ数えているのだ。

「六十」

 数え終えた声は、さっきの数よりずっと低かった。

 窓の硝子に、並んで立つ二人の影が映っている。その影を透かして、峠を下りてくる松明が、一列に見えた。

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