聖女は患者の名を聞く
「光はいりません」
セレスティアが両手を開く前だった。マルタは断った。
橋が落ちた翌朝、治癒倉庫の寝台は三つとも埋まり、昨日取り付けた洗浄台から湯気が上がっていた。マルタの掌には、粉袋の縄で裂いた傷がある。深くはないが、粉と橋の泥が入り込んでいた。
「洗って、縫うなら縫ってください。第三鐘には川下の袋を見に行く」
「祈りなら、傷の熱を」
「光るものは、昨日もう見たよ」
マルタは窓の外へ顎を向けた。その先に、二基の祭灯があった。
「水車は三日止まった。橋は落ちた。私の手は、湯で洗える」
見物に来ていた王宮の書記と城の者が、黙って二人を見た。王都なら、聖女候補が手を差し出せば、患者は礼をして受ける。受けない者がいると、祈りの力より先に患者の態度が記録された。
セレスティアの指先には、もう熱が集まっていた。消せば、また力不足と書かれるかもしれない。祈ればマルタの傷の熱と痛みを和らげられるかもしれない。床下の経路は、ここでは焼ける痛みを返してこない。
「分かりました」
光を消すと、見物人の一人が息を吐いた。失望か安堵か、セレスティアには聞き分けられなかった。
王宮書記は、祈祷拒否、と先に書いた。セレスティアはその板を借り、本人選択により洗浄と外科処置、と後ろへ足した。
「名前も」
マルタが言う。傷のある指で、書記板の空欄を示した。
「マルタ・クラン。南製粉場。昨日流された粉は、まだ数えてる途中だ」
セレスティアは書記へ板を返した。
ミナは外科医ルッツと一緒に、マルタの手を洗った。薬瓶へ触る前に二人で印と濃度を読み上げ、倉庫番が時刻を帳面へ書く。
「綺麗な湯を、もう一桶」
ミナが言った。洗浄台の空桶を、肘で少し押し出した。
侍女が動くより先に、セレスティアは洗浄台の空桶を持った。倉庫裏の火床へ向かう途中で、王宮書記が追ってくる。
「第三鐘の公開祈祷は、どういたしますか。橋の事故後ですから、民へご無事を」
「患者が受けない祈りを、誰へ見せるのですか」
「ですが、王太子殿下が」
「欠席すると、私の名で書いてください」
桶へ湯を入れると、金具が熱くなった。両手で抱え、裾へ水をこぼさないよう歩く。大広間で光を見せた時より、誰も道を空けなかった。
治癒倉庫までの半分で腕が震えた。祈りなら、これより長く光を保てる。桶の重さは信心で軽くならず、途中で持ち替えれば湯が揺れた。ミナは遅いとも、聖女に運ばせるなとも言わず、洗浄台の空いた場所を指した。
マルタの傷は三針で閉じた。祈りは使わない。彼女は包帯を巻いた手で損害札を持ち、第三鐘の前に川へ戻った。
空いた寝台へ、療養車で来た女が腰掛けた。王都東治癒院で火傷を負ったイルマだった。娘が椅子を運び、右脚を載せる。
セレスティアは、公開祈祷室の硝子と、寝台の上で跳ねた脚を思い出した。報告では右脚しびれ。あの日から何度か名簿を見たのに、そこから先を読んでいなかった。
「辺境へ来ることは、ご自分で決めたのですか」
「はい。王都の医師から、北の外科医なら残った感覚を調べられると聞きました。娘も一緒なら行くと言いました」
「わたくしのために連れてこられたのでは」
イルマの娘が椅子の背を握った。
「母が決めたと、今言いました」
借りた聖句で話す時のように、喉が先へ進もうとした。セレスティアは口を閉じ、女本人へ向き直った。
「お名前を、もう一度伺ってもよいですか」
「イルマ・ベック。東染色通り、ベック工房です」
王都の記録にはイルマとしかなかった。娘の名も、工房も、セレスティアは知らない。
「今日、何が分かればよいですか」
ルッツが尋ねた。細い針の箱は、まだ閉じたままだった。
「染め釜の前へ、どれくらい立てるか。座ってできる仕事を増やすべきか。それが知りたいです」
「歩けるようにしてほしい、ではなく?」
セレスティアが口を挟んだ。イルマは右脚を自分で持ち直した。
「歩けるかどうかだけで暮らしていません。釜を見られれば、娘に熱い染料を任せずに済む」
娘はそこで初めて、母親の手を取った。
ルッツが足裏へ細い針を当てる前に、触れる場所を説明した。イルマは踵と小指には返事をし、親指の付け根では首を横へ振った。膝の外側へ触れた時、息を詰める。
「痛みますか」
セレスティアが聞くと、イルマはすぐに答えなかった。娘は握った手を離さなかったが、代わりには話さない。
「祈りを流した時も、そこが痛みましたか」
「はい」
「あの日、止めてと仰っていました」
「最初は」
イルマは右脚を見た。自分の両手で、膝の向きを少し直した。
「その後は、言わなくなりました」
セレスティアの掌が熱を持つ。今度は光を出さず、指を閉じた。
「もう少しです」と返した自分の声が戻った。
「あの時、わたくしは聞いていませんでした」
「聞こえてはいたでしょう」
セレスティアは頷いた。
「今日、祈りを使うことを望みますか」
「今日は、診てもらうだけにします」
「分かりました。次に望まれた時も、止めてと言われたら止めます」
「言えたら、です」
リディアが入口に立っていた。イルマの再検査票を持っている。セレスティアへ礼をせず、本人へ触れてよい範囲と、記録を王都へ送ってよい範囲を尋ねた。
イルマは工房名まで送ってよいと答え、娘の名は外した。右脚のしびれ、膝外側の痛み、祈りを増やした時の悪化は残してほしいと言った。
「王都の記録へ戻したら、また消されませんか」
「王宮だけへは渡しません」
リディアは本人用、東治癒院長用、ヴァルハルトの再検査控えを分けた。王家への写しは、イルマが読んで署名した範囲だけにする。セレスティアが持つ写しはなかった。
自分にも一部ほしい、と言いかけてやめた。
セレスティアは、理由を聞くのが怖かった。聞かなければ、王都の記録にはまた、右脚しびれ、とだけ載る。
「なぜ、言えなかったのですか」
イルマは娘の手を握ったまま、セレスティアを見た。
「王都では、脚が痛いと言えなかった」




